左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

見尾三保子「お母さんは勉強を教えないで」新潮文庫の解説に左巻健男が書いたこと

 同志社女子大学から法政大学に移ってからいろいろと苦しい時期があった。そんなとき、都立小金井公園の緑の中で癒やされたものだ。本書の解説を頼まれたとき、その緑の中で書き上げた。解説を以下に収録したい。ぼくの教育論でもある。


尾三保子「お母さんは勉強を教えないで」新潮文庫 ¥476(税別) H21.2.1発行

解説 左巻健男

○子どもを育てる人たち−保護者・教師・教育行政関係者−みんなに読んで欲しい

 職場の近くに東京都立小金井公園がある。そこは大学の研究室と並ぶもう一つの野外「研究室」がある。公園のあちこちの木製の机の周りに四脚の長椅子がある「研究室」は、気分によって場所を変えながら使用している。今は、紅葉している木々の間にある「研究室」でノートパソコンを開き、この解説を書いている。読み始めたのも読み終えたのも、野外「研究室」の別の場所だった。季節の移ろいを感じながら、理科について教育について考えているのである。
 ぼくは、理科教育の研究者である。中学校・高等学校で理科を教えながら理科教育の研究をしてきたが、今は、それらの経験や研究をもとに大学で教えている。そして、研究の成果を、教師向けの理科教育本や一般向けの科学啓蒙書に展開したり、編集長として月刊雑誌『RikaTan(理科の探検)』を出したりしている。
 一番力を入れたのは有志と現在の「ゆとり、ゆるみ」教育課程を具体的に批判しようと「検定外理科教科書」を作成して世に問うたことである。最初に出した中学校対象の『新しい科学の教科書』(文一総合出版)のシリーズは、新聞・テレビなど、メディアでも少々話題になり、科学書のベストセラーになった。今もたくさんの私立中学校に準教科書として採用され、また“大人のやりなおし教科書”として一般の読者も多い。この本を書くとき、単に「“ゆとり、ゆるみ”だから、多量の知識を教えればよい」という考えは採らなかった。多量の知識を覚えるだけの学習ではなく、「ちょっと大変だけど、共同して高い山に登れば、今まで見えなかったゆたかな科学の世界が見えてくる。そのために本当の基礎・基本を大事にして、これまでわが国の教育を支えてきた、熱意ある教師たちの工夫も活かして展開する」という方針をとった。だから現在の教育課程の理科よりずっと高度だが、科学のイロハを大事にして「理解を引き出す」ことを重視した。
 本書を読んで、ぼくたちが考えてきたことを、実は四十年以上も前から小さな寺子屋風学習塾でやってきた先生がいらっしゃるということを知った。本書の大部分を、ぼくは肯きながら読んだ。そこには、教育、学習の原点が経験に裏打ちされて示されていた。
 保護者に向けて書かれているが、その内容は、教師にも、教育委員会文部科学省など教育行政に携わる人たちにも鋭く迫るものがあると思う。

○国文科卒で大学入試用数学・理科も教えたとは!

 著者は、四十年余にわたり学習塾で小学生、中学生、高校生までも教えてきた。著者について、まず驚いたのは、国文科卒でありながら、その対極にあるかもしれない数学・理科までも教えてきたということだ。それも大学入試用のものを。
 しかし、「あとがきにかえて」を読んで納得した。戦後の新しい教育に情熱をかける教師たちの集団で創設された新制高校で学び、その学校で化学は津田栄、国語は大野晋、物理は竹内潔に学んだという。化学の津田栄先生など、ぼくのように化学教育を専攻した人間からするとうらやましすぎる陣容だ。そこで夢中になって学んだという。
 いや、よく考えてみると、国語の力とは、すべての教科の基礎になるし、数学・理科がもっている論理をこそ国語でも必要とされるだろう。国語は、数学・理科と対極ではなく親戚同士といった方がよいかもしれない。
 著者は高校まででもすぐれた理科教育を受けてきたことが伺われる。ちょっとした文章をきっかけに「空はどうして青いの?」という話題になった。まず太陽の光が波長が短い順から紫から赤の可視光線の集合体をふくんでいることや波長によって空気中の分子やチリでの散乱の度合いが違うことを十分に理解されている。紫から赤の可視光線について、現在の教育課程でも「ゆとり」教育を見直すという次の教育課程の理科でも小学校・中学校では学ばない。著者は子どもたちに「空が青い」理由をやさしく教え、さらにその発展で「朝日や夕日が赤い」理由を考えさせている。
 著者には理科のセンスもある。「家の障子に、三、四センチの丸い明るい円がたくさん映って動いていた」ことの謎解きをしている。ヒントは「庭に葉をたくさんつけた大きな木があった」ということ。葉と葉が重なりあった小さな隙間がピンホールになっていて、障子はピン・ホールカメラの像が映る場所になっていたのだ。その丸い円を太陽の像だと見抜いてもいる。「ああ、あの丸が太陽の像なんだ、と思ったら感激しちゃって、しばらく見とれていたわね」
 虫眼鏡で太陽の光を集めて紙を焦がすことはしても、紙に集まる光の点が太陽の像だと認識している人はどのくらいいるだろうか。細長い蛍光灯の光を虫眼鏡で集めると丸い点にならず小さな蛍光灯の像ができることに想像がおよぶだろうか。

○「やり方を覚える」だけで何も根本を理解させない教育に警告!

 著者がもっとも危惧しているのは、具体的、実感的に理解していないで、何十とおり何百とおりものやり方(解法のパターン)だけを覚え、その場その場では正解を出してしまう子どもたちの増加である。概念、意味がわかっていないで覚えているだけでは、テストが終われば忘れてしまう。
 この傾向に拍車をかけたのが「ゆとり=ゆるみ」の教育課程である。本当の基本さえも削減してきた、ここ数十年の教育課程のなかで、「理解する教育」が弱まっている。「基本を具体的、実感的に理解していれば、どんなに高度な内容になっても、いくらでも応用がきく。そして難しいことを理解し、マスターするのは、生徒にとっても面白くてたまらないことなのである」
 だから、「ただ、教科の内容をやさしくすればいいというものではない。むしろ逆なのである」
 まさしく同感である。たとえば理科では周期表。そこには百余の元素がある規則に従って並んでいる。周期表は中学校理科教科書にずっと掲載されてきたが、現在の教育課程のなかでは、高度だからと削除されていて「発展」としてしか掲載できない。確かに周期表を全部覚えさせるということをするなら馬鹿げて高度だろうが、社会科の地図帳が世界と日本の地理のガイドと同じく周期表は物質界のガイドである。地図帳の記載内容を全部覚えさせるのが馬鹿げたことであると同様周期表の元素データを全部覚えさせるのは誰もしていない。それなのに現場知らず、教育知らずの教育行政は削除した。あらゆる物質(現在、わかっているだけでも一億種類以上の物質がある)が、たった百種類ほどの元素からできている、そのうちの約八割は金属元素だ、金属元素だけからできた物質(金属)は際だった共通性がある(金属光沢や良電導性など)、金属元素非金属元素からできた物質はイオンでできている…等々周期表から読み取れることは多い。だからこそ物質界のガイドとして重要なのである。
 しかし、教育行政側に、人類が探究してきた文化的な成果を学ぶことが面白いことだという想像力というか認識がない。もしかしたら、記憶力がすぐれていて「優等生」になっていた人たちが教育の本質を忘れたかのような政策を考えているのだろうと思ってしまう。
 教育だけではなく、他の部門でも、記憶力に頼って「優等生」だった人たちが、今のわが国の“エリート“官僚など“エリート”層にかなりいないだろうか。既知の「解法のパターン」に当てはめて問題を解いてきた人たちに未知への遭遇のなかでの舵取りは大変困難なことだろう。
 次の教育課程では、理数や国語を重視するという。そのとき、著者が喝破しているように、「教師を信じてまかせる」ことがでできるかどうかが教育の成功の鍵を握るだろう。
 「教師たちを信じてまかせる人が、校長であり、教育委員会であり、教育行政府であることだ。それを思うと、私は絶望的になる。まず、そういう人たちの頭を変えることが先決となるからである。ただ、私は、それは不可能なことと匙を投げたくはない。それは結局、国民一人ひとりの意識の問題だと思う」

○信じて「引き出す」ことを

 ぼくは、ときより指導者層から聞こえる「人は生まれながらに能力が決まっている。脳科学などの成果を使って早期に選別し、ダメな子にはそれなりの教育を、優秀になるはずの子には英才教育を」という論に絶対的に反対である。著者のように何十年か教育の仕事に携わってみると脳はかなりの柔軟性、可塑性をもっていて、ほとんどの人は、引き出してやれば伸びていく存在だということを実感しているだろう。脳科学も、きっとそのことを裏付けてくれると確信している。
 本書にはそのような例もたくさん紹介されている。実は、ぼくも普通科に行く学力がなく工業高校工業化学科に入ったのだが、そこで数学などで落ちこぼれていた。化学は好きだったが、内容はあまり理解できなかった。やっと高二に進級したが、「いったい自分はこれからどうなっていくのだろう?」という不安にとらわれた。「成績が悪い、人間関係力も弱い、手は不器用」という三重苦のなかで、「好きな化学の研究者になれないか」と大学を目指すことにした。独学で数学を学習したのだが、やさしい参考書の例題の丁寧な解き方でも全然辿れない。最初は五分で参考書を投げた。それが集中できる時間が十分になり、二十分になり、一時間になっていった。少しずつわかってきた。ついには数学が得意科目になった。自分で自分を引き出したのだが、結局のところ教育とはそういうことなのではないか。 「“やり方を覚える学習”ではなく、“引き出し”教育による“理解する学習”だからこそ、楽しいのである。」「学習する喜び」があるからこそ、人は伸びていくのである。
 子どもたちが伸びていくことを喜びとする「職人」が保護者であり、教師である。
 「教育とはもともと楽な仕事ではない。割に合わない仕事」であるが、心で仕事をしたい。
 子どもたちがもっているものを「引き出す」だけではなく、ぼくら大人もまだまだ自分を「引き出す」ことをしたいものだ、と思う。
(平成二十年十一月、法政大学教授)