左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

左巻健男「学校に忍び込むニセ科学」(10/22 教育社会学会シンポジウム用配付資料)

左巻健男「学校に忍び込むニセ科学」(10/22 教育社会学会シンポジウム用予稿)
http://samakita.hatenablog.com/entry/2017/10/20/091043

と合わせてお読みください。

 

●はじめに
 大学まで出て、普通以上の教養を身につけているはずの教員が、「水からの伝言」(以後、「水伝」)や「EM」(通称、EM菌)などニセ科学を信じて授業をしてしまうのはどうしてなのだろうか。
 ある程度の科学的なリテラシー(科学的な教養)があるなら、江本勝氏の荒唐無稽な「波動」の説明に怪しさを感じたことだろう。だから、「水伝」授業をする教員には科学的リテラシーが弱い、と一言で言えるだろう。科学的リテラシーが弱くても学校現場が健全な常識の場なら、職員室の話題にはなっても、子どもたちにそれを教えよう、ということにならない。どうも、学校現場もおかしくなっているのではないか。
●“超能力”でスプーン曲げと学校
 ぼくは、1974~1976年は物理化学と理科教育を専攻する大学院生だった。同時に非常勤講師で中学校や高等学校で理科を教えていた。76年4月から公立中学校の理科教諭になった。以後、東京大学教育学部附属中・高等学校の理科教諭に転じて18年間、その後大学に転じて今日に至っている。次は、そのぼくの目から見たニセ科学と学校と教員の様子である。
 理科を教え始めた当時は、高度経済成長の破綻で漠然とした不安感が醸成されていた頃だ。また、公害問題などで科学・技術への不信感も高まりつつあった。当時、学校では「こっくりさん」が大流行していた。
 そんな1974年、ユリ・ゲラーが来日した。まず3月7日にTVでユリ・ゲラーの出演した番組の放送があった。視聴率は30%近くあった。4月4日にも放送があった。両番組で彼がやったのは、“超能力”によってスプーンを曲げることとTVの画面を通じて念力を送ることで、止まっていた時計を動かすというパフォーマンスだった。止まっていた時計が動き出したなどの電話がTV局に1万2千件あったという。
 以後、NHK以外のテレビ局は視聴率がとれるということで「超能力ショー」を頻繁にやるようになった。そこで活躍したのは千人にものぼると言われた超能力少年少女たちであった。とくに有名になったのは関口君と清田君であった。
 『週刊朝日』74年5月24日号の関口君のインチキの写真を掲載した。関口君の両親はインチキを認めたが、それは2回だけとして後は本物と主張。「悪条件が重なるとできないことがある。仕方なしにインチキをしてしまった」。発覚後、スプーン曲げという超能力ブームは急速に衰えていった。大衆が飽きてしまったからだ。それでも、76年当時ぼくが勤め始めた学校の職員室で「超能力はある!ない!」という話が出ることがあった。もちろんぼくは少数派の否定派だった。
 「物体は力を受けると変形する」「力は物体同士の相互作用」「念力の存在は科学的に根拠無し」という科学知識、そして「どう見ても簡単なトリックを使っているとしか思えない」という判断がぼくの根拠だ。
 肯定派は、「科学ではわからないことがある」「子どもがインチキをやるはずがない(たまたまインチキが見つかっても全部がインチキとは言えない)」「“科学、科学…”という人は頭が固い」「不思議な体験をしたことがないんですか」と言ってきた。
 ぼくは、「頭が固い」に対して、次の板倉聖宣氏の言葉を返すだろう。「手品と超能力を区別するのは“実験”。本気で超能力現象だと主張するならその人こそ疑問の余地のない実験をすべき。いいかげんな“ショー”や証言だけで“曲がった、曲がった”と言い、科学的に解明すべきというのは聞くだけで嫌。“もしかするとあるかもしれない”ではなく、“独断的に超能力現象を信じることから出発せよ”という。普通の科学者より独断的で頭が固い」(要約。ものの見方考え方研究会『ものの見方考え方 第2集 手品・トリック・超能力』(季節社))。
 当時、「そんな遠隔でも“超能力”で力を作用させられるなら、スプーンなんか曲げていないで、スロットマシンのドラムでも思い通りに止めてみたら。あるいは、もっと世の中に役に立ったりすることに使ってみてくれ。」とも言ったものだ。「そんなことができるなら、どうしてこうしないのか」というのは、真偽の判定の基準の一つだ。
 さて、“超能力”とスプーン曲げを信じていても、肯定の立場で授業にかけようとした人はほとんどいなかった。ぼくは、当時、理科教育の雑誌の編集委員をしていて全国の様子がある程度わかっていたが肯定の授業の話は聞こえてこなかった。聞こえてきたのは、否定の授業の話である。スプーン曲げは、初心者でもできる簡単な手品なので、スプーンに傷をつけておいたりしなくてもスプーンの素材さえ選べば「てこの原理」で可能である。すると力学の授業の教材になるのである。 30年ほど前の中学校教員時代、“超能力”とスプーン曲げの話だけではなく、教員同士で、教育の話、授業の話、生徒の話ができた余裕があった。持っている授業時数は、今の中学校教員より多いかも知れない。クラスの生徒数も多かった。
 “校内暴力”で荒れてもいた。それでも余裕があり、ぼくのような新任教員はベテランの教員から学ぶことがたくさんあった。こうした余裕が今の学校現場から失われていることは、「水伝」授業に走る教員が出る要因の一つと思える。
●「体験」の危うさ
 その後、『ムー』などのオカルト専門誌が創刊された。「オウム」の信者にはその影響を受けた人が多い。理系の有名大学卒の“優秀な”人たちが、教祖の“空中浮遊”を信じ込んだ。一瞬、跳ね上がったものを撮影したものなのに、“超能力”でずっと空中浮遊していられると思いこんだ。 オウム真理教によるサリン事件が起こったときに、テレビ局はオカルト的な番組を自粛していた。しかし、その後、「占い師」「霊能者」「超能力者」なる人々がテレビによく登場し、視聴率を稼いでいる。
 現実が厳しくなり、不安感がいっぱい、未来に夢がもてないとき、「誰にでも潜在的に超能力がある」「霊がある」「生まれ変われる」「未来を予知できる人がいる」…などの考えは癒しになるかも知れない。占いもプラス的なことを適当に気にしているくらいなら癒しになり実害はないだろう。オカルトは信じるものではなく批判性を持ってシャレで楽しむものなら問題はないが信じ込めば人生が左右される。
 「“虫の知らせ”のようなテレパシーが存在する」「スプーンがふつうの力ではなく“超能力”で曲がる」「“超能力”で未来が予知できる人がいる」などが、科学技術の成果であるテレビによって疑似体験化され、「実際にある」と思わせられたりしている。「テレビで見た、写真で見た」ことが、多くの人に“事実”化している面がある。
 また、実際に自分が体験したことも、錯誤、ある体験だけ記憶、確証傾向(合致している箇所だけに注目し「当たった」と考える)などにも注意しなければならない。
 知人が体験したことばかりではなく、知人の知人が体験したことまでも自分の体験になっている場合もある。たとえば1億の人口で1万人が「体験した」と信じているとすると百人くらいの知人がいるとしたら知人の知人で体験した1人に行き着くのである。ぼくは講義で「電子レンジで濡れた猫をチンした」「あるハンバーガーにはミミズの肉が入っている」などの話(都市伝説)をすると「えー、ウソだったの!」という声が多い。 
 こうした「体験」の危うさについて、学校で教えられているだろうか。教えられていないどころか、教員によっては、教員自身が「本で見た」「写真で見た」ことをオウム真理教信者が教祖の空中浮遊の写真を見て信じたと同じことになっているというのが実態であろう。
 わが国の大人は、科学技術への興味関心が弱い。しかし、それでも科学技術は大切だと思っている。つまり、科学はわからないし、興味関心はないが、科学的だという雰囲気、科学的だとするお墨付きに弱いという傾向がある。とくに科学的リテラシーが弱い人たちにとっては、結晶の写真が彼らにとって“科学的な事実”化してしまうのだろう。
●TOSSという教育運動の“教祖”向山洋一
 「水伝」授業に飛びつく教員がTOSS(トス:Teacher's Organization ofSkill Sharing(教育技術法則化運動)の略)の会員であったり、その影響を受けているということが、1970年代とは違うことだろう。「水伝」授業はTOSSを抜きに語れないのである。
 TOSSの前身は、「教育技術の法則化運動」だった。それが発足当時、ぼくは中高の教員で科学教育研究協議会事務局長という立場であり、関わりもあった。「教育技術、教育指導のスキルを、互いに情報交換しよう」という趣旨に賛同もした。向山洋一氏が、板倉聖宣氏提唱の仮説実験授業からも大いに学んでいると述べていたので理科でも期待をしたのである。
 しかし、がっかりもした。理科ではあまりにも稚拙な内容の「授業技術」だった。授業でも「発問・指示」が明確なので、内容がよくわかる。すると「こんなこと学ばせて何になるんだよ」という疑問いっぱいのものばかりだったのである(「第3期『理科教材の授業技術』を読んで」『現代教育科学』1987年9月号 明治図書)。向山洋一氏らが応募論文から選んだものでこの有様だった。
 その後明らかになったのは、向山洋一氏は単に科学リテラシーが弱いのではなく、確信的オカルティストだということだ。そういう人がTOSSの代表であり、別の教育方法(彼らにとっては異端)を切り捨て、オカルトやニセ科学教育をすすめている。会員は、いわば新興宗教の信者のように代表を崇拝している。今ではわが国最大の会員数の教育団体になっており、TOSSランドというWEBサイトから多数のコンテンツを提供している。
 「水伝」授業は、誰でも追試可能(真似ができる)な指導案としてサイトに載った。もちろん、サイト掲載は向山洋一氏らの目をくぐっている。そうして、全国の教員に広がったのだ。科学者側などから「水伝」授業への批判がWEBサイトやメディアでも出てきたことからだと思うが、現在は、何の説明もなくTOSSの正式なサイトからは一斉に削除されている。いわば“TOSS教、向山教”の“信者”にとっては、「水伝」授業は、クリティカルに検討すべきものでない。追試の成功例も多々あるすぐれた授業なのだ。
 これまでも、“信者”は、向山洋一氏が信じたEMやEMセラミックという怪しい商品で環境問題はなくなるという教育をしてきた。エネルギー問題解決には原子力発電推進しかない、原子力発電万歳!という教育をしてきた。「ゲーム脳」の教育もある。歴史修正主義歴史教育もある。なぜなら向山洋一氏が推薦するものだから子どもたちに伝えなくてはと思いこんでいるからだ。
 現在の学校現場は、余裕が無くなり年中“師走”のような雰囲気だ。書類づくりに追われる。昔よりクラスの子ども数は減ったとはいえ、子どももその背後にいる保護者もつきあいかたが難しくなっている。そして、学校で教員同士がお互いに学びあう雰囲気も薄くなっている。
 一番手がかかる授業の準備をTOSSが用意している指導案ですませてしまおうというのもわからないでもない。TOSSの指導案は玉石混淆で、もしかしたら中にはすぐれたものもあるのかも知れない。
 ぼくの反省は、理科教育の研究者として、向山洋一氏がオカルティストとしての顔を公然と出してきたとき(EM環境教育のあたり)、はっきりと批判しておけばよかったことである。
●おわりに
 「水伝」の授業は道徳の時間での扱いが多い。EM菌も、道徳や総合的な学習の時間で環境教育として扱われることが多い。
 道徳が教科化され、検定教科書が使われるようになると、「水伝」などの授業はずっと衰退していくだろう。TOSSと関係が深かった教育書出版社の明治図書もTOSSと離れた。教科書で教科書を教えるだけの教育が強まっている今、教科書内容にはとくに注意が必要であろう。