左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

ある一次原稿

 水の新書に入れたほうがいいのかどうか悩んでいるテーマがあります。
 とりあえず、その一次原稿を以下に入れておきます。


●お湯のほうが冷水より早く凍る?−ムペンバ現象
 NHKの科学情報番組『ためしてガッテン』の2008年7月9日の放送で、「水とお湯を入れた容器を(冷凍庫などで)同じ条件で冷却すると、水よりもお湯の方が早く凍る場合がある」現象が紹介されました。
 この現象は、アリストテレスの時代から知られていたようですが、当時タンザニアの高校生だったエラスト・ムペンバが再発見したので、彼の名にちなんで、ムペンバ効果と呼ばれます。なお、特定の「効果」があるわけではなく、そういう現象があるということなので、ムペンバ効果よりムペンバ現象といういい方のほうがふさわしいでしょう。
 「お湯のほうが冷水より早く凍る」という現象は、私たちの直感に反します。ですから、テレビで「お湯が水よりも早く凍る、氷を早く作る裏技」と題してムペンバ現象が紹介されたことで科学好きの人たちに大きな話題になりました。たとえば、この番組のことを人づてに聞いた大槻義彦さん(早稲田大学名誉教授、物理学)が、「お湯が水より早く凍るようなことは熱力学の法則からありえない」として自身のブログで番組を非難しました。
 インターネットでも賛否両論が交わされ、実際に実験をした人らも多かったようです。
 ついには、2009年10月、雪と氷およびその周辺環境に関する研究者の集まりである日本雪氷学会において、雪氷研究会企画セッションとして「ムペンバ現象 (湯と水凍結逆転現象) のサイエンス」が開催されました。この集会を提案した樋口敬二さん(名大名誉教授)は、雪の結晶の研究で有名な中谷宇吉郎の直弟子です。
 この集会に参加した田崎晴明さん(学習院大学教授、物理学)と田崎真理子(理科の探検(RikaTan)誌編集委員)が、連名で、「科学ニュースあれこれ ムペンバ効果のサイエンス〜日本雪氷学会研究集会レポート」(RikaTan誌2008年10月号)を報告しているので、それを要約的に紹介しましょう。
 田崎晴明さんはコメンテーターの一人として、田崎真理子さんはRikaTan誌編集委員として取材参加です。
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 集会では、まず、主催者の前野さんから、ムペンバ効果について、歴史的な経緯とこれまでの研究の概略の説明があった。この現象に関わる論文は少なからず発表されているが、実験条件を明記しデータ点をきちんと示したものはわずか数本だという。また、NHKで実際に放映されたお湯が水より早く凍る映像が紹介された。2時間ほどの過程を10秒に縮めたもの。ビーカー全体が凍るのは確かにお湯(66.5℃)の方が水(37℃)より早かった。さらに、断熱材(スタイロフォーム)に直径5 cm深さ1 cmの穴を開けて、78℃と45℃の水を-20℃で冷却すると、より高温の方が先に凍りどんどん温度が下がるという、前野さん自身の丁寧な実験の結果も報告された。「見通しをもって」実験条件を工夫することが、現象を再現するコツだという。
 その後、各コメンテーターが、それぞれの専門に即してムペンバ現象についてコメントした。…田崎は、統計物理学の専門家として、「ムペンバ現象」で重要なのは「非平衡性」よりは「非線形性」であり、この現象は既知のメカニズムの組み合わせで理解できるはずだと述べた。
 また、今回の研究集会のために新たに行なわれた二種類の実験の紹介があった。面白いことに、冷凍庫を使った実験では「水の方が先に凍り始めるが、最終的に完全な氷ができるのはお湯の方が早い」という意味でのムペンバ現象がみられたのに対し、冷凍室での実験はいつでも水が先に凍ったという。…
 集会の最後に、ムペンバ効果について、高橋修平さん(北見工大)を中心に協力者を募って系統的に実験をしていこうという提案があった。現象を左右しそうな要素を数え上げてみると、(1)お湯の温度、(2)水温、(3)装置(容器の材質、冷却方法、観察方法など)、(4)対流(容器の寸法による効果)、(5)過冷却、(6)溶存気体(水に溶け込んでいる気体の問題)、(7)溶質(どのような水を使うか)、(8)霜、(9)水蒸気圧(容器表面からの蒸発の効果)と多岐にわたる。各々について 5 種類の条件を試すとすると、5の9乗=約195万通りの実験条件を試す必要がある(ここで会場は爆笑)。これはさすがに無理だろうという点については会場全員の意見が一致し、最も効きそうな要素を軸にしていろいろな方向に調べていくことになるだろう。
 単に「お湯が水より早く凍る」といっても、凍結開始の時間を比べるのか、容器の水すべてが凍るまでの時間を比べるのか、など色々な解釈がありうる。そのあたりの整理も必要だろう。また、過冷却と核形成が重要な場合には、たとえ正確に同じ条件で実験しても、凍結開始時刻には確率的なバラツキがあるだろうから、その処理も難しいところだ。…
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 雪氷学会は、2010年9月28日に企画セッション「ムペンバ現象(湯と水凍結逆転現象)のサイエンス 2010」を開催しています。
 そのセッションに参加した天羽優子さん(山形大学准教授)がブログにそのときの内容を報告しています。
 2009年のセッションで、「実験の結果、逆転現象自体が明確に起きたとは言い難く、逆転の可能性についての議論も十分ではなかった」ので、さらに開催したという趣旨説明がありました。
 そこで、凍結逆転の原因についての要素と問題点として、「凍結の定義:全面凍結か表面凍結か、凍結開始か終わりか」「過冷却:お湯の冷却速度が大きいのか」「蒸発(潜熱):お湯の方が蒸発熱が大きい」「対流(顕熱):上からの冷却と下からの冷却」「放射(放射熱):上からの冷却と下からの冷却」「伝導(底からの伝導熱):下から冷却するときの特性」「溶存気体:沸騰水は溶存気体が少ない?」「溶質:水の種類によるか?」「偶発的な要素(霜による冷却速度の違い、溶質のムラ…)」などがあげられました。
 実験経過報告が行われましたが、結局、ムペンバ現象は偶発的にしか起きない、要因が複雑でいくつかの可能性を見いだすレベルで終わったようです。そして、雪氷学会としてはムペンバ現象についてのセッションはこれで終わりにするということになりました。
 田崎真理子さんは、RikaTan誌のレポートで、「系統的な実験によって、ムペンバ現象が出現しやすい条件が明確にされ、家庭や学校の理科室で手軽に観測できるコツがみつかることにも期待したい。その際には、どこよりも早く RikaTan 誌上で紹介させていただきたいと思っている。」と述べています。しかし、その後、そういう「コツ」は紹介されていません。