左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

北インド・レー(ラダック)の思い出…そこで肝炎になった…

 以前ラダックに行ったとき(1994年)の小文があった。「もう一回行ってみたいのはレー」と書いてあった。今夏レーに2回目行くことになっている。 


 もう何年前のことだろう。
 その年の8月、ぼくは、北インドのラダック地方のレーという町にいた。
 大ヒマーラヤ山脈の西端の裏側にあり、すぐ近くまでインド中国国境紛争地帯が迫っているインド最北の町である。
 それまで滞在していたボンベイやデリーといった大都会と違って、レーは人口2万2千人ほどの静かな小さな町だ。
 大体インド人が少ない。顔つきも着ているものも違う。家のつくりも違う。言葉も、ヒンディ語ではなくラダッキ語である。行き交う人々は、当たり前のように「ジュレー!」と挨拶しあっている。ぼくもついつい挨拶してしまった。「ここも本当にインドなのか?」と思ってしまうほどだ。
 ぼくは、インドの旅を何度かしているが、いつも緊張していた。観光客相手にしつこくつきまとってくるインド人たちを振り払わなければならない。しかし、レーでは、その緊張がとけた。
 宗教も違っている。インドの大部分はヒンドゥー教であるが、レーは、チベット仏教ラマ教)である。あちこちにそのゴンパ(僧院)がある。
 レーで泊まったのは、イーグルゲストハウス(イーグルとは鷲・鷹のこと)で、一泊一室100ルピー(1ルピーは、約3.3円)。レーに何度もきている友人の佐藤漠河さん(英語塾主宰・写真家・ライター)と一緒の部屋だったので、4泊しても200ルピーだった(デリーにもどる飛行機の関係で、レーにいたのは、4泊5日)。佐藤さんとオーナーは顔なじみで、ぼくらはオーナーの家に招かれて、ラダックの朝食や夕食をご馳走になったりした。オーナーの家も、チベット仏教の信者で、その仏間は大変立派なものであった。
 ゆったりとした時間が流れていく。ここレーは、3千数百メートルの高地なのだ。あまり急ぐと薄い酸素の中、息が切れる。つまり、富士山の頂上で生活していると同じなのである。
 デリーやボンベイでは雨期だというのに、レーはヒマーラヤ山脈にさえぎられて雨があまり降らない。酸素は薄くてもさわやかな風が吹いている。夜に空を見上げると満天の星である。これほどの夜空は、ぼくにとっては、アメリカ・カリフォルニアのデスバレー(死の谷)以来である。
 ゲストハウスから10分も歩くと、レーの中心地バルチバザールである。各種のお店に加えて、夏は観光客相手のチベット人カシミール人の露店が並ぶ。地元の農家のおばさんたちが野菜やアプリコットなどを販売している。
 ぼくがレーでやったのは、町をぶらぶらすることとゴンパ(ティクセ・ゴンパとアルチ・ゴンパ)見学である。
 町の中心には、旧王宮がそびえている。チベットのラサにあるポタラ宮殿は、この旧王宮をモデルにしたと聞く。登っていくと、広場で何かはじまりそうだった。ラダックの伝統的な踊りがはじまるのだ。見学料50ルピー。佐藤さんは、控室でお化粧やらの準備をしている踊り子さんたちと話をして、カメラを向けていた。控室に入り込んでカシャカシャシャッターを切るとは、さすが写真家である。途中の休憩時にはチャンというお酒(ドブロク)が出た。ぼくは、おいしいので三杯も飲んでしまった。踊りの最後はラダックの伝統的な結婚式を見せてくれた。
 旧王宮から町全体が見える。グラウンドでは、ポロという競技をやっていた。
 帰り道、金属製のかめを頭にのせていた運んでいた女の子に会った。きっと水を運んでいるんだろう。ぼくを見てにこっと笑ったので、カメラを向けた。
 ティクセ・ゴンパは、すでにマナーリーからレーに入るときに、夕闇の中で目にしていた。目の前の丘の斜面いっぱいにゴンパがそびえていた。このゴンパに見学に行ったときのこと、背後に僧たちの読経の音を聞きながら、ぼんやりと外を見ていた。右側に細く緑色の土地が続いている。インダス川に沿った土地だ。あとは、荒涼とした砂漠のような土地である。その中に小学校らしい建物がある。「子どもたちはいるんだろうか」と思っていると休み時間になったらしく、ぞろぞろと出てきた。強い日差しをさえぎるものはない。塀のわずかの影にかたまって何やら話しているグループや日差しを何ともせず走り回っているグループなどいろいろだ。ふと、空を見上げてみた。虹が出ている!それは、太陽を中心に閉じた円状になっていた。
 もう一つ、ティクセ・ゴンパで印象に残ったのは、僧たちの昼食だった。自分の食器をもって昼食をもらいに行く。ぼくの見たところライスに濃い緑色の野菜炒めにのっているものだったが、僧たちはみんなにこにこしている。この昼食をもってあちこち散っていったから、自分の居所で食べるらしい。
 もう一つ行ったアルチ・ゴンパ見学の帰りに、道端にライチョウがいるのが目にはいった。これで、北アルプスでみたライチョウの親子、北海道・富良野でみたエゾライチョウの親子に、ヒマーラヤのライチョウが、ぼくの鳥見録に加わったことになる。
 ゴンパでは、原色で描かれた仏画曼陀羅、金色に輝く仏像たちに感動したのは勿論である。


 「レーへの道」
 インドにとってレーは、軍事上大変重要な町なのだ。実際、町のはずれには軍の基地がある。
 ラダック地方が観光客に開放されてから、そんなに日がたっていない。1970年代の半ばからなのだ。飛行機がレーに飛ぶようになったのは、1979年のことである。
 レーには、チベット仏教の文化が根づいていている。観光客は「小チベット レー」にあこがれてか毎年増加している。
 飛行機で直ちに入ると高山病で何日か寝る人が多い、ということで、ぼくと佐藤さんらは、バスで入ることにした。しかし、これはこれで凄まじい体験だった。
 デリーからレーへのバスでの入るには、マナーリー経由である。
 まずマナーリーへ行った。デリーを夜に出発して、次の日の昼マナーリー着である。マナーリーは、クル谷の北端に位置する避暑地である。ここで休んで体調を整えておかないと、マナーリー レーの間の5千メートルの峠を越えられないのだ。
 佐藤さんが「昨年、レーの日本山妙法寺の中村上人がマナーリーにも日本山妙法寺をつくるとおっしゃっていた」と言うので、それを探してお世話になろうということにした。
 バススタンドから15分ほど斜面を登っていくとリンゴ園の中にそれはあった。まだ寺はできていなくて、宿坊だけだったが、ぼくらは、そこに泊まることにした。宿坊に土地を提供しているヒラさんのお宅の隣である。ヒラさんは、リンゴ園の経営者で、土地の有力者だった。ぼくらは、2晩もお宅に招かれて、歌や踊りありのパーティに興じたのだった。ここでインド上流階級の家庭の一端をのぞくことができた。
 マナーリーで2晩過ごしてから、朝出発のレー行きのバスに乗った。
 このマナーリー⇔レー道路は、距離にして485㎞、1989年にはじめて外国人に開放されたが、今やレーへの出入りによく利用されている。しかし、軍事用として重要な道路でもあるので、外国人のチェックは厳しい。何回ものパスポートチェックがあった。
 1日目は、キャンプ場でテント泊まり。ここまではよかった。大変荒々しい道路だが、高山植物が咲き乱れるなか、周りの景色を見る余裕があった。3978mの峠を越えたが何ともなかった。
 2日目、まず4883mの峠を越えた。このころ、ぼくの体に変調のきざしがあった。軽い頭痛だ。最近の高地の経験と言えば、昨年夏テントをかついで登った北アルプス槍・穂高の3千と少しである。
 突如として吐き気がぼくを襲ってきた。ぼくは窓から体を乗り出して吐いた。3回、4回と。胃から吹き出した液体が放物線を描いた。ついに高山病になったのだ。
 軽い頭痛があるだけで、体はぴんぴんしていても、吐いたとなると気分的に元気がなくなる。ぼくは景色を見る元気がなくなってきた。
 約3時間後、またもや吐いた。もう胃のなかには何もないはずだったが、胃液が分泌されたのだろう、また多量の液体がほとばしり出た。さらにまた、その3時間後に吐いて止まった。
 バスは、5千メートルを越えていく。最大は、ターランガ峠の5380メートルである。そのころには、体が馴れたのか、吐き気も頭痛もなくなっていた。途中、山羊などの群れと何回かすれ違う。周囲は、山と谷で、大変雄大な景観である。氷河を抱いた高山も見られる。
 こうして、マナーリーから出発して2日目の夕方レーについたのだ。
 レーから約19㎞にあるティクセ・ゴンパが小高い丘いっぱいに広がっているのを見たとき、「ついにレーについた!」と喜びがこみ上げてきた。
 ぼくは、今回、レーの他にボンベイエローラとアジャンタの石窟寺院、デリー、アーグラー(世界一美しいと言われるタージ・マハール、アーグラー城)、カジュラーホー(ヒンドゥー寺院の外壁を埋める生命力に輝く彫刻)、ジャイプル(ピンク・シティ、アンベール城)を回った。それぞれ良い所だが、もう一回行ってみたいというのは、やはりレーである。次回には、まだ回っていないゴンパを見学したいし、トレッキングにも挑戦したい。何よりも澄み渡ったしのぎやすい空気の中、読書などにふけりたい。


【後日談】
 レーからニューデリーに戻ったら、路地をあるいているとき吐き気がした。
 「いくらぼくでもインドの汚さに辟易しているのだな」と思った。
 日本に戻ってから真実が明らかになった。肝炎にかかっていたのである。
 原因はどう考えても5千メートルの峠を越えてから休んだ茶店の横を流れる小川の水を飲んだことだ。
 チョコレート色の尿を出しながら入院生活を送った。
 原因不明のウィルスだったがどうもE型肝炎だったと思う。入院で完治したのは幸いだった。