左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

「記憶のなかの十五歳」…東大附属学年誌に書いたもの(2001年3月記)

 私は、栃木県小山市の中学校から東京都文京区の中学校に転校してきた、いかにも田舎風の貧弱な少年だった。
 十四歳だった。その年令が人生のなかで美しく輝いているとは言いたくはない。身長順で前から2,3番目。三年A組の教室で、栃木県訛りを馬鹿にされながら、目立つわけでもなくひっそりと生きていた。勉強はできなかったが嫌いではなかった。


 休みには都電に乗って東京中を回って歩くのが楽しみだった。


 十二月になった。保護者面談で担任から「君には普通科では受かるような高校はない。工業高校なら受かるところがあるかも知れない」と言われて、受験先を工業高校工業化学科にした。一番の得意科目が理科で、理科は五段階評定で三をとっていた。そのころイオンの単元で試験管の液を混ぜると沈殿ができる反応などに魅せられていた。迷わず工業化学科を志望したのだ。


 年が明けて十五歳になった。


 志望の工業高校工業化学科にともかく合格して、通いはじめた。実習は大変おもしろかったが、数学をはじめとしてほとんどの科目の授業内容についていけなかった。一方、クラスの人たちとうまく友だちになれなかった。人間関係が下手ということを強く意識した。当時工業高校を出て会社員へ、という道がふつうだった。その道をとらない方向はないか。大学へ行って化学をもっと勉強しよう、そしてできることなら人間関係で苦労しそうな会社員でなく化学の研究者になろう、と思い立った。


 新聞や雑誌を作る生徒会編集委員になり、自分の文章が活字になったり編集した新聞が読まれる喜びを知った(後に編集委員長になった)。


 十四歳までただ呆然と生きていた。十五歳で夢をもった。客観的には、高校の進級さえ危ない状況ではあったのだが。自意識が急激に頭をもたげていた。もうその夢が実現できないなら生きている意味はないと思っていた。地道に努力したというわけではないが夢は捨てなかった。その夢を諦めたのは大学二年のときだった。一番は化学研究者になるには能力不足を実感したからだ。そして学力劣等生出身ということを活かして教育者になろうと思った。

 
 今もなお人間関係は苦手である。自分では何気ない言動の一つ一つが誰かの心を突き刺しているかも知れぬ。ときには後悔の臍を噛むがほとんどは知らぬが仏状態だろう。これからも傲岸不遜な態度は直らないだろう。
 物事を笑い飛ばす術を覚えたからこそここまで生き抜いてこられたという自覚がある。


 思春期は、自意識との格闘期である。大いに悩み、反発しながら、真っ当な倫理観なりを形作っていく時期なのだろう。


※これを書いた2001年3月、ぼくは長く勤めた東大附属を辞め、4月より京都工芸繊維大学に教授として異動したのだった。