左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

ぼくの教師としての取り柄は,「学力劣等生」だったこと

 この頃昔書いた文章を読み直している。(^_^;)
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 学生時代ぼくが教師になろうとしたとき,どうして教師になりたいのか自
問してみた。

 最大の理由は,人間関係が下手なので会社員にはなれぬ。学力がないので
なりたかった科学の研究者にはなれそうもない。まあまあ教師ぐらいならや
れるかもしれない。相手はガキで,密室の教室内での授業だから,人間関係
が下手でも何とかなるかもしれないじゃないか。

 この理由では,あまりにもネガティブなので,もう少し考えてみた。ぼく
には,小学校や中学校で「いじめられ体験」がある。内向的で,うまく友だ
ちづきあいができずトロイときたら絶対にいじめられるのだ。

 ぼくは,子どもが好きだから教師になろうって思ったことは一度もないが,
いじめられてきたような者でも教師ぐらいはできる,ということを示すこと
はできる。これは教師として取り柄ではないか。

 もう一つ,ぼくは,「学力劣等生」からまあまあの学力がないと務まらない
と思われている教師になろうとしている。これもぼくの取り柄ではないか。
中3のとき理科だけは得意科目だった(少なくとも5段階の評定で3だった)
ので,やっとの思いで工業高校工業化学科に進学した。そこでだって学力的
には落ちこぼれていたが,あるちょいとしたきっかけから,勉強が好きにな
り,少々できるようになったのだ。つまり,勉強の面で「逆転」できたので
ある。

 それにまだ取り柄はある。飯場に住み込みながら工事現場ではたらいてい
たという経験である。こんな経験,普通の教師にはないだろう。

 そんなこんなで,ぼくは「そんじょそこらにはいない教師になれるはずだ。
今に左巻健男らしい理科教育を打ち立ててやる!」と思った。なかなかいき
がっていたのだ。

 こうして同僚などに「存在そのものが迷惑」などと言われた大モノ(身長
と体重で)の理科教師が誕生した。

 かなり個人的なことだが,これらのことがバックグラウンドにあって,ぼ
くの教育論,理科教育の実践があるのだ。それに・自分の存在こそが「逆転」
現象の最たるものだったと思うのだ。

 ぼくの授業には,ときどきのニュースについての意見・感想やぼくの体験
談などの「余談」が入る。若い頃には「授業を余談でごまかしてはいけない」
とベテランの尊敬する教師に言われて,余談をしていると少々自己嫌悪にお
ちいったものだ。余談なんかではなく,あくまでも討論などで「課題」を深
く掘り下げる授業をしなければならないと。しかし,今は「ぼくは,たかが
理科の授業をしている身。自然科学が明らかにした自然・物質の世界もおも
しろいさ。ただそれだけじゃなくて,人間として共感しあえるような授業も
したいな」と思っているわけだ。

◎非行少年はバイクと理科が好き

 ぼくが教師になった頃,中学校には(埼玉県大宮市立春里中学校)非行の
嵐が吹き荒れていた。ぼくは大モノの一風変わった教師だった。新任の頃は
仮説実験授業の授業書で授業をやった。しかし,ぼくの場合は仮説実験授業
にはまることはなかった。科学教育研究協議会(科教協)に出会い,自分で
授業をつくっていくという方向に魅力を感じたからだ。

 そのころ(今に至ってもだが)どこかで読んで頭を離れない言葉が「非行
少年はバイクと理科が好き」というものだうた。

 本当は,子どもたちは未知のものに対しての探究の欲求があるのだ。それ
なのに育てられる過程で,それを失わされたのではないか。とくに子どもた
ちはまわりの自然・物質(モノ)へのはたらきかけと,そのリアクションが
大好きなんだ。

 ちゃんとした理科教育をやれば・もともと子どもたちがもっている欲求
火をつけることができるはずだ。勉強なんかクソクラエと思っている非行少
年だって,それだけの「積極性」があるんだから,理科が好きになるはずだ
(そうそう,ぼくも元非行少年の端くれだった)。

◎「逆転」現象は仕組むものではない,それは自然におこること

 ぼくの「ちゃんとした理科教育」とは,「おもしろ理科授業」ということだ。

 中学に入学した子どもたちは,目の前に立つ大モノ教師に「こいつは一体
どんな教師だろう」と不安と期待でいっぱいである。まずは,一発,昔の「学
力劣等生」だったときの話をしながら自己紹介をする。もうそれだけで,ぐ
っと彼らとの距離が縮まる。

 理科の授業のスタートは,保健室から借りてきた体重計を前に,「2本足で
のった場合と1本足でのった場合,針はどうなるか?」という課題からであ
る。すでに,小学校時代,粘土やアルミホイルなどで「物の形が変わっても
重さは変わらない」を学習しているが,これを人間を素材にやるとなかなか
の討論になる。「知識としては知っている者だって悩みはじめるのだ。次に
は,1キログラムのジュースを飲んだ直後の体重はどうなるか?」という課
題である。これだって,まあいくつもの意見が出る。実際に飲んで体重計に
のってもらうのだが,みんな一生懸命に針を見つめるのだ。

 わざわざ「逆転」現象を仕組むのではない。自然科学の論理(この場合「物
には重さがある。物の形が変わっても物の状態が変わっても,その物の出入
りがない場合には重さは変わらない。出入りがあれば,出た分だけ軽くなり,
入った分だけ重くなる。逆にはじめより軽くなったら何か物が出ていった,
重くなったら何か物が付け加わった」)をつかむまでは,誰だって間違える可
能性がある。どんなに成績優秀な者もである。

 ぼくは,東大や京大などで理科教育の講義をもつと,そこで,ぼくの言う
「ちゃんとした理科教育」からは当たり前にできるはずの問題を学生たちに課
すことがある。例えば「銀色粒の仁丹の銀色は金属か?」「単体のカルシウ
ムは何色か?」などである。この間題,ぼくなどがあちこちに書いたりして
いるので知識として知っている者もいるが,たいていは悩んでしまう。銀色
粒仁丹の表面は金属(本物の銀)だし,カルシウムは銀色をしている。彼ら
は中学校・高校(少なくとも高校化学)でこの間題を考えられるだけの知識
を教わっている。しかし,個別の知識にとどまってしまったがために,この
ような問題に自信をもらて答えられないのである。別の側面から言えば,
「物質の世界を探究するのに金属認識は重要」という教育が行われていない
ことを示している。

 授業は,子どもたちがもっている知識の確認の場ではない。未知の世界へ
の探究の場なのだ。

 子どもたちは自然科学の論理がちゃんとわかっていないから理科を学ぶの
である。知識の多寡で自然科学の論理がもてるわけではない。

 形式化した「探究の過程」の「手続き」なんか教えないで,大自然を子ど
もたちといっしょに探究しよう。子どもたちといっしょに自然の世界を探究
するという立場で理科教育を考えれば,「逆転」現象なんてあるのが当たり
前になる。

 結局,おもしろ理科授業こそ教師を,子どもたちを変えていくのだ。