左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

お話授業で引き込むためには(教育方法論・資料)

 今日の講義は次の資料を基に話をします。


1.お話も授業の重要な要素
 授業は、教師による教授活動と子どもによる学習活動の複雑なプロセスです。
教師は、講義・問答・討論の組織・練習・実験・観察・体験実習・工作などさまざまな形をとって子どもたちにはたらきかけます。そして同時に、子どもはもは、基本的な知識とそれを活用する技を身につける、すなわち自然の構造や法則性をとらえ、自然にはたらきかける能力を身につける、という学習行動をします。
 授業の場では、教師が教えることと、子どもが能動的に学びとることが統一するようなことがおこっているのです。
 その授業の中で、いつも問答や実験・観察が中心になるわけではありません。
何でも問答や実験・観察でというと効率は悪くなります。また、問答や実験・観察中心の授業であっても「説明」など教師のお話は不可欠です。
 教師のお話も授業の重要な要素です。
 教師のお話は下手をすると子どもの頭の上をただ通りすぎて子どもの頭に何も残らなかった、ということがおこりがちです。一方的な話というのは、その場ではわかったつもりになっても認識の定着が弱い面があることが多いのは確かです。その話の組み立て、話し方によっては効率的のみならず印象深くすることは可能です。そのためには、教師はお話の内容を、科学の知識としても十分理解するとともに、子どもがすでにもっている認識の枠組みについても理解していなければなりません。そこが教師の腕の見せ所になります。ですから、お話が、子どもの頭の中で活発な思考を呼び起こすものかどうかが問われます。
2.共感性のある雰囲気と子どもの意見への教師のフォロー
 教師が発問すると「ハイハイ」と手があがり、一人を指名すると「○○です」
の答えが返り、それに「そうですね」と教師。「では、△△は?」またハイハイ…。「□□です」「違います。わかった人は?」…。
 これでは、教師が「正しいこと」をにぎっていて、それに一致しなければ間違いで、間違いは恥ずかしいことになってしまいます。このような雰囲気の中では、教室は「間違い」を恐れる雰囲気になります。
 教師は子どもに対して権威であると同時に一緒に自然を探究する同志です。
 それに対し、子どもを自然の探究を一緒に行う同志ではなく、ただ教師の教授活動の受動的存在にしてしまっている授業、教師が握っている正解をただ確認していくような、あらかじめしかれたレールにただ乗せていくような授業もしばしばあります。
 学習とは子どもたちにとって未知だからやることです。学習とは未知を既知にしたいから行う活動なのです。だから未知への課題への挑戦となります。間違ったって、それは当たり前のことです。
 自然への問いかけて、結果として「間違い」となった考えに対してどう教師はフォローしたらいいでしょうか。以下はその具体例です。
・A君の意見は、実は○世紀まではそのころの大科学者がみんな考えていたことなんだ。
・昔、○○というえらい科学者がいて、その科学者が主張していたことと同じだ。
・A君の意見は、○○という条件のもとでは正しい考えだね。
・A君の意見があったから、問題がはっきりしたね。A君の意見も成り立つなあ、なんて頭の片隅で思っていた人も多いんじゃないかな。A君はその代表だったんだ。
・実験では、A君の意見は間違いだってわかったけど、A君の意見ってすごく
 説得力があったでしょ。これからもA君のような鋭い意見がどんどんでるといいね。

 子どもたちが何でも言える雰囲気をつくるには、少数意見を大切にし、ある意見を馬鹿にするような笑いや言葉にはきびしく対応し、ひとそれぞれの精一杯の意見をしっかり聞くようにさせる必要があります。
 子どもの頭は「白い紙」のようなもので、その上にいろいろなことを書き込んでやる過程が授業である、と考えている教師がいます。白い紙だなんてとんでもありません。もうすでに生活の中で、学校教育の中で、いろいろなことが書き込まれているのです。そういう子どもたちの意見にはそれぞれ根拠があります。それぞれの意見を受け止める姿勢をもつ必要があります。
 教師と子どもの人間どうしの共感があふれた雰囲気をつくりましょう。
3.話し方の条件
 「内容を伝えよう」という心をもつことは、前提です。そのうえで、話術の基本として次の3条件はクリアしておきましょう。
・言いたいことがハッキリしていること。
・具体的でわかりやすいこと。
・発音がハッキリし、「あのー」とか「そのー」とかの無意味な感動詞を用いないこと。
 いきいきとした顔つきで、全員を見渡しながら、一番後ろのものに語りかけるくらいの声の大きさで、聞き手の頭のなかにイメージがわきやすいように具体例を入れながら話をします。
 一般に、教師は一時に盛り沢山の内容を話す傾向があります。一時には最高で3つの内容にしぼります。
 また、部分の積み重ねで全体に進むような話の展開ではなく、全体の概要をわからせてから部分に進む展開のほうが話についていきやすいし、印象に残りやすいものです。
 最初に全体の概要を示すときに、全体の中でもっともおもしろい内容を出してしまうのもうまい手です。クイズにして挙手してもらったり、演示で現象を見せたりの「つかみ」を工夫するのです。子どもたちが、「おっ、何かおもしろい話になりそうだ」と思わせることが大切です。
 「生活指導をビシッとやって、話をよく聞くようにさせる、とくに、最初が肝腎」などといわれますが、それよりも話の「つかみ」と「展開」で話を聞くようにさせたいものです。 (左巻健男

【参考】

「4分6の構え」 私は、○課題○予想分布表○実験方法○新しい用語や説明のための図などを板書している。板書するときは、完全に黒板に向かってしまうのではなく、横向きで子どもの反応を見ながらおこなう。また、意見発表のときなど、板書を利用して発表することも子どもたちにすすめている。(左巻健男

板倉聖宣さんが、『思い違いの科学史』(朝日新聞社)に書いていることをみよう。
≪「思い違いの科学史」とか「失敗の科学史」などというと、とかくその思い違いをしていた人びと、失敗をした人びとがバカやアホウに見えてしまう。天動説と地動説、燃素説と酸化説、熱素説と熱運動説、天地創造説と進化論−−こういった歴史は、善玉と悪玉の歴史、あるいはバカとリコウの物語として書かれるのが普通だった。「こんなバカなことを考えて失敗したやつがいる」「こんなとんでもない思い違いをしたやつがいる」「そこにすばらしい天才が現れて、ものの見事にその失敗・思い違いのタネを明かした」というのである。こういう物語を読むと、私などまったく委縮してしまう。私なんか、いつもとんでもない思い違いをしていて、たえず失敗してこっそり顔を赤くしていたりするものだが、それを公然とバカ扱いされたのではやりきれない思いがする。そんな話が横行するものだから、「みなさまのご指導よろしきを得て、大過なく過ごさせていただき、感謝に耐えません」などという文章を、何の疑いもなく書いて平気な官僚的人間がうようよするようになるのだ。「大過なく」が、重要なのではない。「大した功もなく」が問題なのだ。
 未知のことに取り組んで新説を立てようとすれば、失敗することは免れがたい。だから、「創造的に考えることを奨励する」ということは、「間違いを恐れるな」「思い違いをしてもいいんだよ」と奨励することでなけれぱならない。「昔は、こんなばかげた思い違いをしていた人がいる。そんなばかげた思い違いをしてはいけないよ」といった教訓話はあとでよい。
 「この人たちは、未知の問題に取り組んだからこそ、こんな失敗もしたのさ。歴史に名の残る人だってこんなとんだ思い違いをしているのだ。だから僕たちが失敗したって仕方がないじやないか」−−そういって人びとを励ましたい。
 教室で、子どもたちが間違ったことをいう。そういうとき、私はよく歴史上の大科学者の思い違いを思い起こす。「ああ、あの子はニュートンと同じ間違いをしたな」「この子の間違いはアリストテレスそっくりだ」「あの子の間違いはガリレイそっくりだ」「なんて、みんなすばらしい間違いをするのだろう。大科学者そっくりではないか」と思うのだ。
 「天才の頭の構造は几人には計り知れない」なんていう俗説・高説など、私は信じない。「人間なんてみな五十歩百歩なのだ。ただある人びとは、いろんな失敗をも恐れず未知の問題に取り組まざるをえないような場におかれたからこそ、すばらしい発見をするようになっただけだ」と考えるのである。≫

 新居信正さんは、「まちがいの効用」についての「哲学的発想」をつぎのようにまとめている。
●マチガイをおそれずに、大たんに自分の考えを主張して相手を説得する喜び。
●マチガイをおそれずに、みんなの考えを出しあったから、○○ちやんのような便利な考え方を知ることができたのだという喜び。
●同じ問題にもイロイロ考え方があるものだと、他人の考え方も大切にすることの重要さ。
●他人のヨイ意見はどしどし取り入れて、自分のノーミソを肥していくことのスバラシサ。
●「なるほど『失敗は成功の基』なんだなァ」と実感したときのうれしさ。
(『小学校の現場から』フレーベル館

○よいもののまねのすすめ(左巻健男
 教材研究では、教育内容として何が大切なのか、使えそうな問題・課題がないか、どんな実験教材があるか、ということを考えたり、実践記録から子どもの認識の実態(どこでどのようにつまずいているのか)をさぐったりします。
 教材研究を進めていくと、どのような授業をしたらよいかが、しだいにィメージされてくることもあれば、いつまでたっても漠然としたままのこともあります。そのような場合でも、集中して考えつづけることで、頭の中で「発酵」がおこなわれて、かすかでも授業の輪郭が見えてくることがあります。そうならないで見切り発車してしまう場合も、授業をやっては、つぎの時間の授業を構想していきます。
 そのとき、“ひとまねは嫌だ”と同僚や授業の参考文献から学ばない人もいます。しかし、もっと気楽に、よいものはよい、よいものはどんどんまねしようと考えたらどうでしょうか。まねは恥ではありません。まねを恥じて、いいかげんな授業をやっている方が恥なのです。
 よい授業書、よいテキストというのは、よい問題(課題)、教材をうまく配列することによって、子どもたちが楽しくわかっていく道すじをつくり出しています。いつもの授業よりも子どもたちが集中して問題にとりくみ、深く多面的に考え、自分の意見をのベ、他の子どもの意見を聞くようになることが多いものです。この体験は、自分で授業をつくっていくときにもたいへん役立ちます。そして、気にいった授業テキスト(全体あるいは部分)も自分の「財産」となっていきます。
 よい授業書、よいテキストというのは、教育内容が考えぬかれているとともに、問題(課題)とその配列、教材とその配列が「授業の法則性」にのっとっていて、他人への伝達可能性をもっています。他の成果から学ぶと共に、自分の授業をつくるときに、他の人でもうまくいくような授業をつくっていくという気持ちをもつことが大切です。