左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

読み物:愛国的化学者ハーバー(左巻健男編著『素顔の科学誌』から)

*空気から肥料をつくろう

  
 ドイツの化学者ハーバー*はユダヤ人ということが不利になってなかなか大学の助手のポストにつけませんでした。何とか三〇歳で大学の助手に採用されてからは猛烈な研究を開始しました。一九〇六年、ハーバーがやっと化学の教授職についたとき、彼の関心は当時の化学界最大のテーマ、空気中の窒素を化合物として固定することに注がれました。


フリッツ・ハーバー 1868―1934 化学者/ドイツ
 一九〇六〜一一年カールスルーエ工科大学教授。一九一一年物理化学・電気化学研究所所長兼ベルリン大学教授。一九三三年公職を退き、亡命中スイスで客死。BASF(バスフ)社のK・ボッシュの技術的協力により水素と窒素からのアンモニア合成法を確立。ガラス電極を発明。*


 当時、窒素肥料は、硝石(硝酸カリウム)やチリ硝石硝酸ナトリウム)でした。農作物を育てるとき、成長するのに必要な養分のうち、細胞のタンパク質合成に欠かせない窒素がもっとも不足しがちです。窒素は空気中にたくさんあるのに肥料としては硝酸塩やアンモニウム塩など窒素の化合物の形にしなければ植物は吸収できないので利用できません。このため、天然に産するチリ硝石や石炭の乾留時の副産物として得られるアンモニアが産業の原料や肥料に用いられてきたのです。そのために南米チリからチリ硝石が大量に輸入されていましたが、その資源の枯渇が心配されていました。
 それなら、空気中に体積で五分の四をしめる窒素を利用できないか、というのが、化学者たちの主張でした。いろいろな化学者が挑戦しましたが、最終的にハーバーとボッシュの方法が工業化へと進んだのです。それは、当時の化学工業界では経験のない二百気圧という高圧と摂氏五五〇度という高温で窒素と水素を反応させる方法です。一番大変だったのは高温高圧に耐える反応装置の開発でした。その反応装置開発はボッシュの担当でした。ボッシュは鉄製の反応装置が突然破裂して命拾いをしたこともありながら、やがて高温高圧にびくともしない反応装置をつくりあげました*。


アンモニア合成の原料は空気中の窒素、それに水素である。窒素と水素を高温高圧で化合させるとアンモニアができる。鉄製のオートクレーブ(高温高圧の反応装置)をアンモニア合成に使うと、原料の水素が鋼鉄を腐食する。そのため、オートクレーブの材料に苦心を重ねたが、ついに低炭素クロムバナジウム鋼で装置をつくり、さらに酸化鉄(四酸化三鉄)にアルミナとアルカリを加えた触媒を用いて成功した。*


 ハーバーとボッシュアンモニア合成法の成功でドイツのみならず世界の食糧増産の大功労者になりました。この業績によりハーバーとボッシュはそれぞれ一九一八年、一九三一年にノーベル化学賞を受賞しています。


*窒素からアンモニア合成成功でドイツは戦争を決意?


 一九一三年、ドイツではハーバーとボッシュの方法によって空気中の窒素を使ってアンモニアの製造の工業化が始まりました。その年の夏にオッパウの工場でアンモニア製造が始まったのです。アンモニアからは硝酸をつくることができ、硝酸からは火薬類をつくることができます。
 そして一九一四年末、第一次世界大戦が勃発しました。
 アンモニア合成がハーバーとボッシュによって成功したとき、ときのドイツの皇帝は、「さあ、これで安心して戦争ができる!」と言ったというエピソードがあります。海上封鎖を受けてチリ硝石の輸入が困難なときでしたから、いかにもありそうな話です。戦争遂行にはパン(食糧)と火薬(砲弾)が大量にあることが必要だからです。パン(食糧)のためには農作物を育てるときの肥料が必要です。
 しかし、戦争の足音が近づくにつれ、パンと火薬の生産を心配した化学者エミール・フィッシャーらが政府に具申したら「学者が軍事にお節介をするな」
と一蹴されました。軍当局は、戦争は短期間に決着が付くと思っていたのです。ですから、ときのドイツの皇帝が、「さあ、これで安心して戦争ができる!」と言ったというのは実際の話ではありません。
 第一次世界大戦は、五年間もの時と大量の火薬を費やすことになりました。
アンモニア合成法の工業化は、その結果としてパンと火薬の両面からその戦争を支えることになったのです。


*ドイツのために海水から金を採取しようとしたハーバー


 第一次大戦で敗れたドイツには莫大な額の賠償金が課せられました。ハーバーは、ドイツ国家のために海水中の金を取り出してその賠償金を払おうと考えました。当時、海水には1トン当たり数ミリグラム程度の金が含まれていると考えられていたので、それを取り出せばいいと思ったのです。ハンブルグとニューヨークを往復する客船に秘密実験室をつくり、回収実験をくり返しました。
 しかし、ハーバーが海水中の金の濃度を測定したところ、1トン当たり0.004ミリグラムしか含まれていないことがわかりました(今ではもっと少ないと考えられています)。取り出せた金の量はゼロでした。もし取り出したとしても、その金よりも何倍ものお金がかかってしまうので、とりやめになりました。


*毒ガス開発へ、その中で妻が自殺


 時は、一九一五年四月二二日、所はベルギーのイープルの地。ドイツ軍と仏軍のにらみ合いのさなか、ドイツ軍の陣地から黄白色の煙が春の微風に乗って仏軍の陣地へと流れていきました。それが塹壕の中へ流れ込んだ途端、兵士たちはむせ、胸をかきむしり、叫びながら倒れ…そこは阿鼻叫喚の地獄絵そのものに変わったのです。ドイツ軍が、百七十トンの塩素ガスを放出し、仏兵五千人が死亡、一万四千人が中毒となった、史上初の本格的な毒ガス戦、第二次イープル戦の様子です。この毒ガス戦の技術指揮官こそハーバーでした。「毒ガス兵器で戦争を早く終わらせられれば、無数の人命を救うことができる」というのが、ハーバーが毒ガス兵器開発に他の科学者を巻き込んでいったときの説得の論理でした。
 毒ガス利用の化学戦がいかに悲惨なものかを知っていたハーバーの夫人、化学者クララは、化学戦から身を引くように夫に懇願しました。しかし、ハーバーは聞き入れず「科学者は平和時には世界に属するが、戦争時には祖国に属する」「毒ガスでドイツは迅速な勝利を得る」と言って東部戦前に出発して行きました。クララは、その夕方、自らの命を絶ったのです


*国家に冷たくされ、失意のうちになくなる


 実は毒ガスを広く解釈すると戦争に最初に使用したのはフランスだと考えられています。フランスは、使用したブロモ酢酸エステルは単なる刺激剤だから毒ガスではないという言い訳をしていますが、第一次大戦で最初に毒ガス(催涙ガス)を使いました。しかし、やはり本格的な毒ガス使用は第二次イープル戦でしょう。第二次イープル戦の後、イギリス軍は同年九月、フランス軍も翌一六年二月には塩素ガスで報復しました。ドイツも連合国も優秀な科学者を動員して毒ガス製造に血道をあげたのです。
 塩素ガスに対して防毒マスクなどで対策が講じられるようになると、毒性が塩素ガスの十倍という窒息性のホスゲン、無色で、接触するだけで皮膚がやけどし、ひどい肺気腫(しゅ)、肝臓障害を起こすマスタードガス(イペリット)へと進んでいきました。その先頭にハーバーがいたのです。


毒ガスなど化学兵器の登場
1914 第1次大戦ぼっ発
1915 毒ガス初登場
1925 化学兵器使用禁止でジュネープ議定書
1932 満州国成立      
1935 イタリアがエチオピアで毒ガス使用
1937 日本軍が中国戦線で毒ガス使用開始
1945 広島・長崎に原爆投下 
1988 イラククルド人地域で毒ガス使用
1995 地下鉄サリン事件
1997 化学兵器禁止条約発効


 しかし、ヒトラーが支配するようになるとユダヤ人のハーバーにも冷たい風が吹いてきました。比類ない愛国的化学者ハーバーも、カイザー・ウイルヘルム研究所長を辞職し、ただのユダヤ人ハーバーとならざるをえませんでした。
 心身の疲労のためドイツから出てスイスのサナトリウムで静養し、その後イギリスに迎えられました。しかし、そこでは彼の毒ガス兵器への憎しみが残っており、快適な環境ではありませんでした。そのイギリスから、失意のなか、スイスへの保養旅行へ出ましたが、旅先のバーゼルでなくなりました。一九三四年一月二九日のことでした。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
*参考文献:宮田親平『毒ガスと科学者』光人社 1991.11*