左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

これまで生きてきたのも丸もうけ、これから生きる分は、なおさら丸もうけ。

 左巻健男のある著書に入れた「教師のための精神衛生法」。


 その項の最後の言葉は、地球の誕生、そこでの生物の誕生と進化、人類の誕生、自分の誕生といった宇宙史の中に自分の生を位置づけて、渋谷治美さんの言葉を紹介。落ちこみそうなとき、思い起こすとよい言葉だと思います。
 そして、この言葉を実感できるような教育をすすめていくことが理科教育の立場に立った生命尊重の教育として大切だと思うのです。


 その言葉とは、「生まれてきたのは丸もうけ、これまで生きてきたのも丸もうけ、これから生きる分は、なおさら丸もうけ。」です。



【以下に『おもしろ理科授業入門』日本書籍(絶版)に入れた項目を採録しておこう】
 1991年9月初版

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教師のための精神衛生


◎一番恐ろしいこと


 現場は、いそがしい。いそがしさにまぎれて、思考停止の状態をつづけてしまう。そんな危険性に満ちているのだ。これは恐ろしいことだ。だから、“何でも一生懸命”ではなく、ときには上手に手を抜いて、何をやるべきかをよくよく考えねばならない。


◎おちこみやすい人に


 現今の状況は、まじめな人ほど、おちこみやすい。
 悩む、というのはとても人間的なことだ。私たちは、悩みながら大きくなってきたのである。私など「あんなことをやってしまった、こんなことをいってしまった」などと後悔のほぞをかんで、一人、自分の部屋で床をどんどんた
たいたりしている。それでいいんだと思う。悩みをばねにして、つぎに頑張るのである。


 おちこみやすい人は、黒白をはっきりしないと気がすまない人に多い。「完全」「理想」を基準にして悩んだりする。明るく居直らなきゃだめなんだ。世の中には妥協しなければならないこと、しかたがないとあきらめなければならないことがたくさんある。これをズルズルと妥協してしまうというのは間題外だが、自分ができる範囲で、できるレベルでしかやれないということを認識する必要がある。前進するためには、妥協もあきらめも、時には必要なことがある。


 おちこみやすい人の予防策の決定打は、“小さな達成感を大切にする”ということだ。「完全」「理想」からものをみるのではなく、自分のレベルからものをみるのである。一日一つでいい、小さくて達成感のあることをやるのだ。


 たとえば、
○プリントをつくる
○予備実験をやってみる
○今度の授業は、ここのところで勝負してみようなどと頑張ってみる
○ちょっと心配している子に声をかけてみる
 などなどに、“ヤッター,という気持ちをもつことである。


 世に、ニコニコ健康法なるものがある。楽しくてニコニコするなんてのは当たり前だが、この健康法は、無理しても二コニコするのである。ニコニコすることで、世の中、楽しくなって健康になる、というのである。小さな達成感でニコニコしよう。


◎「たかがどされど」の考えがた


 教育という営みの、ワンパートをうけもつにすぎない理科教育。たかが理科教育である。そのたかが理科教育でメシを食い、生きがいを得たり、悩んだりしている。いったん「たかが」とつきはなしたうえで、「されど」と見直すと、ユトリをもって理科教育を考えられるだろう。


 森毅さん流にいうなら、私たちは、「たかが学校」で「たかが教師ごとき」をやっていて、「たかが理科」を教えているわけだ。教育委員会や管理職にガタガタいわれようが、そんなことは、自分の人生を自分でつくっていく大事業にくらべれば、たいしたことはないんだ。「たかが理科」ぐらい自分の主体性をもって授業をやりたいんだ、ということになろうか。


 ちょっとした失敗をやらかしても、「たかが」と明るく居直りたい。小さな失敗をつみ重ねることが、大きな致命的な失敗をしないですむ最善の方法である。小さな失敗でもやった本人にとっては、「重大事」に思えるものだが、他人はそんなに「重大事」とみていないものだ。


◎頭がポケないために


 千葉康則さんは、『年齢をとらない頭の本』のなかで、「頭のボケやすい人の職業は、役人、国鉄の職員、学校の先生、警察官、単純反復労働をしている工場勤務の人だという。ここにあげた職業は、みなワンパターンの労働におちいりやすい。というのも、創造性とか直観力とかいうよりも、真面目さを必要とされるからだ。かんたんにいえば利益追求というような挑戦を必要としないものである」とのべている。
 ふつうの教師生活を送ってしまうと、思考能力はどんどん落ちていくのである。


 それなら、どうしたらよいか。
 千葉さんは、「要所要所では、自分の意見をはっきり表明し、拒否する態度をとるべきなのだ。また、指示されたとおりにやるのではなく、つねに自分のやり方、工夫をとり入れるように心がけることだ」とのべる。さらに「玉砕するか挫折するかの二者択一の選択をするよりも、ゲリラ人間になるほうがいい。周囲に順応しているようにみせながら、実質的に自分の考え方を実現していく人間である。・・・ふだん社会にでているとき“真面目”な人ほど、会社や家庭をはなれたら“不真面目人間’になることだ」という。


 たんなる勤勉、たんなる一生懸命では、頭がぼけるのである。その点、教科書を横目でみながら授業を構想して実践するということは、おもしろくかつ創造的かつ精神衛生上いいことなのだ。
 時の流れに身をまかせ、知らんうちに齢を重ね、ボケ頭しか残らない人生よりも、その場その場をたのしみながら、まず自分が成長できて、ついでに子どものためになり、結果として社会のためになる生き方のほうが、いいんじやないだろうか。


 どうせ、私たちは理科の教師。仕事は、かなりの部分を「理科の授業」でしめている。この仕事がつまらなかったら、他に趣味を見つけるか、部活でもがんばるか・・・しかない。やはり、「理科の授業」をおもしろがってやっていこう。それには、いろいろ制約がある。でも、その制約を気にしつつ、あるいは克服してやっていくというのも適度の緊張感があっておもしろいんじやないか。・・・ということで、本文も「理科授業研究のすすめ」になってしまった。


 最後に、おちこみそうなとき、おもいおこすとよい言葉を。
 地球の誕生、そこでの生物の誕生と進化、人類の誕生、自分の誕生といった宇宙史の中に自分の生を位置づけて、「生まれてきたのは丸もうけ、これまで生きてきたのも丸もうけ、これから生きる分は、なおさら丸もうけ」と唱えるのである。(渋谷治美「唯物論的人間学の試み」唯物論159号・東京唯物論研究会から)