左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

10代の君への手紙 (第10回) 夢をもち,あきらめずに努力することは人生の基本・・・・・・左巻 健男

 ぼくの少年時代など、詳しくは左巻健男『おもしろ理科授業の極意』東京書籍の「左巻健男の個人史」10pに書いた。

 ぼくの原点は、長い間、学力劣等生だったこと。だから教員になったとき嬉しかった。当時、教員はまあまあの優等生がなれた職業だったからw。

 

『道徳教育』2019年1月号(明治図書

10代の君への手紙 (第10回)

 

夢をもち,あきらめずに努力することは人生の基本・・・・・・左巻 健男

○私は理科を教える理科教育者としてずっとやってきた
 私は、中学校・高等学校で理科を教える教員を26年間やってから大学教授になり18年目になります。主に大学生に教えているのですが、ときには小学校で「理科実験の名人の授業」をしたり、小学生向けの科学実験ショーをしています。また、理科・科学についてたくさんの本を書いてきました。

 

 こんな私は、自分を紹介するときに「理科教育者」と言っています。理科を教えることを専門にしている人という意味です。私は理科教育者を44年間もやってきたのです。

 

 ふり返ってみると、私が理科教育者になったのは、小学校時代に理科が好きになったからでした。
 きっと君は、私のことを「小学校のときから頭がよかった」と思うことでしょう。それが大違いなのです。この手紙は、今、「自分は頭がよくない」「自分は内気で人とうまくつきあえない」と思っている人に向けて、私の経験をもとに書こうと思っています。

 

○「あいうえお」が書けなくて数を数えられないで小学校入学
 父と母は、私が小学校に入る前に、ひらがなが書けるように、また、1から100まで数が数えられるようにと特訓しました。しかし、私は、ちゃんと書いたり、数えたりすることができませんでした。

 

 父と母は、「この子は頭が悪い」とわかったようで、その特訓をすることをあきらめ、それ以後、「勉強しなさい」「宿題はやったか」などを私に言わなくなりました。小学校の通知表の成績はひどいものでした。担任の先生からは「忘れ物が多い」「宿題をやってこない」などと書かれました。授業の内容がよくわからないのですから、授業中は教科書の余白やノートにマンガを描いたり、まわりの子たちにちょっかいを出したりしていました。小学校5年生になるまで先生方にほめられた思い出がまったくありません。

 

○「左巻君は理科ができるね」という一言で理科が大好きになった
 小学校5年のときに、私にとって大きく学校生活が変わるきっかけとなるできごとがおきました。
 担任の平原タイ先生に、どんなときに言われたかは思い出せないのですが、「左巻君は理科ができるね」と言われたのです。小学校入学以来、初めてほめられたのです。

 

 当時は、学校から帰ると川に魚とりに行ったり、山にキノコとりに行ったりして、自然のなかで遊んでいました。ですからそういう遊びの中で身につけた理科の知識があったのかもしれません。
 ほめられた後、私がやったのは、図書室に行くことでした。理科の本を借りて読むようになりました。
 さらに世界の過去の文明の本や探検ものの本も読むようになりました。
 こうして理科だけは好きな少年になったのです。

 

 今は身長が180センチメートルありますが、当時はクラスの中で背が低いほうで、学校の成績がとても悪かったので自信がなく、友達もあまりいませんでした。

 

 中学3年生のとき、担任の先生に「左巻君には行ける普通科の高校がない」と言われたのですが、「ぼくは理科が好きなので工業高校の工業化学に行きたい」と希望しました。先生は私の成績を見て、「そうだね、理科だけは(5段階で)3だね」と言って、「死に物狂いで勉強すれば受かるかも知れない」と言ってくれました。工業高校に入ってからも成績は悪いままでした。しかし、大好きな化学の実験が多かったので何とかついていきました。

 

 高校2年生のとき、今後どうするかにとても悩みました。成績が悪いだけではなく、人間関係もうまくない私に何ができるかという悩みです。希望の一位を科学者、二位を理科教育者に定めて、学習を開始しました。そんな私が大学、大学院を出て理科教育者になれたときはとても嬉しかったです。

 

 私の個人的な経験に過ぎないのですが、今、君は発展途上人で、これからどこまで発展するかは、夢を持つこと、あきらめないこと、努力すること、それと運次第です。私は、きっと理科教育者になれなくても、理科を趣味として生きたことでしょう。