左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

トンガ王国に遊びに行った話(22年前のことだが)

 もう22年前のことだが、トンガ王国に遊びに行ったことがある。そのときの話を「マイ文書箱」で見つけた。『子供の科学』誌に書いたもの。

 それを見つけようと思ったのは、河合秀俊『35のエピソードで綴る 素顔のトンガ』文芸社2016を読んだからだ。トンガ、トンガ人の雰囲気が変わっていないと思った。

 

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○大きな大きなトンガが待っている 
 「よし、トンガ王国へ行くぞ!」
 ぼくは、この冬にトンガ王国に行くことを決意した。一緒に行くのは、後藤富治さん(当時、自由の森学園教諭)だ。
 南太平洋の島〃、青い海、大きな人たち、ゆったりと流れる時間‥‥‥。ぼくはトンガ王国にそんな想像をした。
 まわりの人に「トンガ王国に行くよ」と言ったら、返ってきた反応は、「ほら、前にトンガから来ていたお相撲さんいたじゃない? みんな体大きいんだよね。ラグビーでも来てるよね」「トンガの王様は、時々日本に来るよ。すごい大きい人だよ」さすが、トンガ=大きい人、ということは知れわたっているようだ。トンガの王様(ツポイ4世)は、身長2メートル、体重200キログラム以上だ。
 ぼくだって、1メートル80センチに、90キログラムだ。「左巻さん、トンガ人になっちゃうんじゃない?」とか言われながら、日本を出発したのが12月24日のこと。日本からは直接便はないのでフィジーに寄ってからトンガ入りするのだ。フィジーまでの飛行機はビーチ(浜辺)でマリンスポーツでもやって冬休みを過ごそうとする人々でいっぱいだった。「こんなに乗っているんだから、トンガまで行く人も何十人かいるよね」と後藤さんと話したものだ。
 しかしだ。トンガ行きの飛行機には、ぼくたち2人以外に日本人は3人しかいない。全部で10人くらいしか乗客はいないのだ。
 「むむ、トンガはひょっとしたら秘境なのかもしれん」と思った。でも、ぼくらは何の心配もしていなかった。トンガには、日本で理科の教員をしていて、青年海外協力隊の隊員の山田京子さんという強力な助っ人がいるのだ。山田さんは、トンガのババウハイスクールという学校で教えて1年以上たっているから、トンガの生活のすみずみまで知っているはずである。ぼくらは、山田さんの援助でトンガの村の生活を体験するつもりなのだ。
 ぼくらが乗った飛行機は、トンガの首都ヌクアロファがあるトンガタプ島へと降下していった。トンガタプ島はまっ平らで、椰子の木が林立していた。それらの椰子の林を空から見ると、まるでゼニゴケのようだった。(これ、わかるかな?)

トンガ王国とは? 
 ここで、トンガ王国のことをちょっと紹介しておこう。
 トンガ王国は、南太平洋の中ほどにあるたくさんの島が集まった国である。島の数は約150個を数える。このうち人が住むのは36個。住民は、主に農耕で生活をしている。
    全部あわせた面積697平方キロメートル(日本の対馬と大体同じ)。大きな島はトンガタプ、ハアパイ、ババウである。人口は約12万人。その8割近くは首都があるトンガタプに住んでいる。
 お金の単位はトンガドルで、1トンガドルが大体100円である。
 言葉は、トンガ語と英語。
 英語教育には大変力を入れている。小学校から勉強している。

○いつでも誰でも“こんにちわ!”  
 トンガタプの飛行場に降り立ったぼくたちを待っていたのは、強い太陽光線だが、ふきわたる風のすがすがしさだった。日本は冬でも、ここは南半球。今、夏真っ盛りなのだ。
 首都ヌクアロファを歩いた。みんな明るい顔をしている。数年前、インドで「お金をくれ」と叫んでまとわりつく子どもたちや乞食さんを見たが、ここではそんなことはまったく無い。何の心配もないかのような幸せいっぱいという顔をしている人ばかりだ。
 ぼくらにも「マロエレレイ!(こんにちわ!)」と挨拶してくれる。見ていると、誰もが道ですれ違えば挨拶しているのだ。ぼくらも挨拶するのが当たり前になった。
 かつてトンガに3度立ち寄ったキャプテン・クックが島民の親切に感謝して「フレンドリィアイランド」(親切いっぱいの島)と呼んだが、きっと今でもそのままでいるんだろう。
 ぼくらは、これからのトンガ生活に期待をもった。実際、ワクワクドキドキの生活が待っていたのだ。

○日曜日は、仕事をしても遊んでもダメ 
 さすが首都。車が多い。それもほとんど日本車だ。日本の会社名などが入ったままの車である。
 日曜日は、働いたり遊んだりしてはいけない、という命令が王様から出ているそうだ。
 「まさか!」と思ったが、本当に、日曜日は人々は働いていないのだった。前日の土曜日、あんなにも海で泳いだり、貝などを採っていたのに、誰もいないのだ。
 日曜日は、ほとんどの人は、着飾って教会に行っている。教会は、村の社交場だ。村では立派な建物は教会と決まっている。生活費をけちっても、教会には寄付するからだ。日曜日の教会からは、賛美歌の合唱がひびいている。トンガ人の合唱ときたら「すごい!」の一言につきる。近くだと思って、声のする方に歩いていくと、10分もかかるところだったりする。
 ときどき、荷台に鈴なりになったトラックが目の前を通り過ぎる。大きな声で合唱しながらだ。トンガの学校には「音楽」の授業はないのに教会できたえられているのだ。

○何でも“サイペ” 
 トンガタプの観光は、1日もあれば終わってしまう。本当のトンガ生活を知ろうと思えば、離島のババウに行かなければならない。
 山田さんが予約してくれているはずなので、ババウ行きのチケットを買いにエアラインの事務所に行った。(山田さんは、ニュージーランドに研修に行っていて、不在。)それが、いくらコンピューターをたたいても名前が入っていないという(そのコンピューターもあやしい)。山田さんの名前も入っていないのだ。これは、困った。ぼくたちが予定している飛行機はいっぱいだという。何回も交渉して、いっぱいのハズのチケットがとれた。いったいどうなっているのか?
 夜、山田さんがやって来た。今日までのことを話すと、おもしろいトンガ語を教えてくれた。“サイペ”である。「悩むことなんて無いよ。何も問題ないよ」という意味である。
 ぼくらにとって飛行機のチケットのことは大問題だったが、トンガ人にとっては“サイペ”である。それからというもの問題がおこっても、ぼくらも“サイペ”と言うことにした。その後、この言葉を何回も言ったり、聞いたりすることになった。

○ババウでの生活 
 18人乗りという小さな飛行機でババウに向かった。窓からは、真っ青な南太平洋の海が見える。所々無人島やリーフが見える。海の青と緑、島のまわりに打ち寄せる波の白さなど息を飲む美しさだ。
 ババウ空港は、本当に小さい。滑走路に小さな建物があるだけだ。
 ババウには船でも行ける。元は長崎や広島で使われていたという船だ。船だと、「トンガ人は、酔っても、食べて飲むので、滝のように吐く。それも自分の足元に。船が傾くとそれらが他のお客の足元に押し寄せる。」と聞かされた。それを聞いたら「船も体験してみたいな」と思った。もう一つ、山田さんの家での夕食でピラフを作った。使った油にはゴキブリが2匹浮いていた。日本でなら「げー」もの。しかし、みんな、平気で食べる。昼食後は昼寝をする習慣ができてしまったし心がトンガ的になってきているのだろうか。
 ババウで会った日本人の旅人が足を見せてくれた。だいぶ良くなったと言っていたが、彼の足にはブツブツがたくさんできていた。熱をもっていて足が重いという。ダニにやられたらしい。
 それから旅人の足元を見るくせがついた。
 高級ホテルに泊まっている白人の足も、赤くブツブツと盛り上がっていた。「ぼくらは、ああはなりたくないな」と後藤さんと顔を見合わせた。ぼくらは、清潔な山田さんの家にいそうろうしていたので、何ともなかった。

○トンガのごちそう 
 トンガのごちそうはウム料理と言って、穴を掘って、そこで石を焼き、バナナの葉でつつんだイモや野菜、子豚などを入れ、葉と土でカバーしてつくる蒸し焼き料理だ。
 ぼくは、初めて子豚の丸焼きを食べた。皮はぱりっとしている。皮の内側は白い脂肪層でおおわれている。トンガでは、豚は、放し飼いだ。そこらじゅうにいる。日本では“豚”は“のろま”の代名詞だが、トンガの豚の走るのがはやいこと!(ついでにいうと鶏も空をとぶ感じ。)ごちそうを前にして、あの豚たちのことを思い出したのだ。

○ホームスティ
 さあ、トンガ生活の本番はこれからだ。さらに小さな島にわたり、電気もない村でホームスティするのだ。
 ババウでもトンガの離島なのだが、そこからさらに小さな島にわたることにした。船着場に島に行く船を探しに行く。買い出しなど来ている船を見つけるのだ。交渉成立して出発。
 山田さんが言うには、ホームスティする家は、その村で二番目に貧しい家だという。
  トンガの家は、高床式だ。ホームスティの家は部屋は3つに仕切られていたが、家具らしきものはない。大きなトランクが1つあって、そこに衣類やシーツなどが入れてあるのだ。家はたしかに貧しそうだ。それにちょっと衛生的ではなさそうだった。何しろ家に鶏が入ってくる。庭には豚がかけまわっている。
 雨の日など、豚が床下に来て床を支えている柱をスリスリするので、家全体がゆれるという。
 ぼくらが恐れたのは、ダニ、ノミである。かゆい赤いブツブツを想像してしまったのである。
 たしかに、この家では伝統的なトンガの生活が体験できそうである。
 居間(?)に静かにおばあさんとおじいさんがすわっている。やさしそうである。
 夕食はタロイモ、サツマイモ、豚肉。ぼくらのために、豚さんが1匹犠牲になったのだろうか。夕食は、おいしいとは言えなかったが、食べられないほどではない。トンガのごちそうと言われるシピ(羊のあばら肉)なんかよりずっとおいしい。シピは、ニュージーランドでは捨てている肉で、トンガがハリケーン(台風)でやられたとき援助物質として入ってきてから、トンガの生活に根をおろしてしまったもの。
 この家は村のたまり場になっているようで青年たちが集まってきて歓談。
 しかし、彼らの生活を見ていると、「おい、もっと働けよ!」とどなりたくなる。ぼくらは、まだまだトンガ人にはなりきれていないのだ。涼しいうちはバレーボールをやり、日中は昼寝をし、夜は集まってだべっている。
 雨がふったとき、その家は雨漏りをしていたのだが、誰も修理しようとはしない。ぼくらが、彼らが仕事をしているのを見たのは、夕刻、数分間、豚にココナツを割ってあげていたことくらいである。

○トンガでは貧しくとも食うには困らない。
 ブッシュに入れば食べ物はある。ファミリィ(家族というよりは、もっと広く親戚といった感じ)にたよれば食うぐらいは何とかなる。ここには飢えはないのだ。一生懸命仕事をするという考えはないらしい。また、失業率も高く仕事がないということもあるだろう。しかし、一生懸命仕事をするのを馬鹿にする風潮もあるようだ。

○ついに何かにやられた! 
 ぼくらの寝る場所を見た。万年床のようだ。全体がしっとりしている。風の通りが悪く、むし暑くてなかなか寝つかれなかった。蚊が耳元でうなりをあげる。タオルで顔をおおって寝た。
 朝、おきて布団のシーツをみると点々と黒いものがある。ノミのふん?
 何か所か蚊に刺されてかゆい。蚊ではない跡も何か所か。特に首の回りが帯状に真っ赤になっている。泣きたくなるほどかゆい。ついにやられたのだ。
 朝食は、小麦粉と砂糖を混ぜたものを豚の油であげたもの。きっとごちそうなのだろう。しかし、食はあまりすすまなかった。
 また恐怖の夜がきた。
 今度は、布団の上ではなく、板の間に寝る。
 首の回りがかゆく、眠れない。ノミのはねる音らしきものがする。時計をみると少ししか針は進んでいない。眠れないのはつらい。寝返りを打ちながら、時間が進むのを待つ。
 朝おきて、ぼくは「かゆいよー」と泣きそうな声を出すと、ババウに帰る船をさがしてくれた。
 子どもたちとの交流、美しいビーチでの泳ぎなど楽しいこともあったが、やっぱり悲惨なホームスティがやっと終わったのだ。
 ババウでも村でホームスティをしたが、こときの教訓をいかしたのでダニに少しやられたくらいですんだ。

○本当にフレンドリィなトンガ人たち 
 ぼくらがトンガでやったことは、トンガ生活体験の他にシュノーケリングイカつり、途中果物を採りながら食べながらのピクニックなどだ。そこで感じたことはトンガ人は、本当に親切だということだ。車で通りかかった人は、車を止めて「乗ってけ!」と言ってくれる。旅にはトラブルがつきものだが(旅は英語でトラベル。トラブルと親戚)、ぼくらも“サイペ”と言って、いつも笑顔でいることにしよう。