左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

学びのある授業と学びがない授業(左巻健男『おもしろ理科授業の極意』東京書籍の一節)

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学びのある授業と学びがない授業

 東大附属中高で同僚だった草川剛人さん(帝京大学)から聞いた話。彼は日本史が専門で、若い頃は落語を聞いて話術の技を学んだという意欲的な教員だ。日本史でも黒板とチョーク、それに話の授業ではなく、実物的な教材なども用意して授業をしていた。

 

 東大附属は、よく東大教育学部の先生方がゼミの学生を引き連れて授業見学に来た。彼の授業を見た教授から、当時東大教育学部長だった佐藤学さん(学習院大学)にその授業の様子を聞いた。それで、彼が佐藤さんと会ったときにいわれた。「草川さん、この前、いい授業をしたんだってね」。続けて「教員の責任は、すぐれた授業をすることではない。子どもが学ぶ授業をすることです。教師の責任は一人残らず学ぶ権利を保障することです」。その言葉が、彼が佐藤学さんが提唱する「学びの共同体」に参加したきっかけだという。

 

 私はそれを聞いてから、佐藤さんが述べている「学校の役割・教師の責任は、すぐれた授業をすることではない。一人残らず学ぶ権利を保障し、高いレベルに挑戦できる機会を保障することだ」ということを意識している。

 

 私たちは、いわゆるすぐれた授業ができるようになることを求めがちだ。

 子どもたちが活発に次々と発言する。それらの発言を引き取って、教員が発言をまとめ、次の発問をする。また活発な発言が続く。外から見て、そんな授業は、とても華やかだ。しかし、そこに学びがあるかどうかが大切なのだ。教員の話が下手でも、活発な発言がなくても、そこに学びがあるかどうか。

 「学びがある」とはどういうことか。

 すでにわかっていることを確認することは学びとしてはとても低い。今はわかっていないことがわかっていくことが学びなのだ。それを私は「未知への探究」と呼んでいる。今はわかっていないこと、つまり今より高いレベルに挑戦する。しかも一部の子どもだけではなく、一人残らず挑戦していることが、「学びがある」授業ということなのだと思う。

 

 発問に対して子どもたちが「はい!はい!」と挙手し、活発に次々と発言するような授業をよく見ると、発問内容のレベルが低い。既知の、当たり前の内容だからどんどん発言できるし、発言する子どもが偏っていたり、思いつき的な内容も多かったりする。

 発問内容のレベルが適切でも、活発な発言の陰に「わからない」子どもが隠れてしまっていることもある。

 

 佐藤学さんが「授業をしっとりしたものに。教員はテンションを上げない」と述べているが、テンポを上げないでじっくりと考えるようにし、しっとりと落ち着いて語りかけることも意識したい。きっと学びのある授業は表面的な活発さはなく、一人一人がよく考えているので落ち着いた雰囲気になることだろう。

 

 そこで先述のように、私は課題方式の授業で、課題への〈自分の考え〉を書かせている。そのぶん授業のテンポは遅くなるが、学びはじっくり進めたほうがいい。人の意見を聞くことも大切だ。自分の考えと人の考えをすり合わせて考えを深めるのだ。そこで「人の意見を聞いて」も書かせている。

 

 子どもの発言や教員の説明が一段落したときに、よく「わかった人?」と聞いてしまう。挙手させれば、何がわかったのかわからない子どもも挙手することだろう。「わからない」とは言いづらい。だから、「わかった人?」とは聞かないで、わかっていれば答えられるような発問を投げかけたりする。それで自分の考えを書かせてみれば、「ここまでは大丈夫だな」「もう少しここのところはアプローチしよう」とか判断することができる。

 質の高い学びのために、授業に未知への探究の要素があるかどうかをいつも意識したい。