左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

自己否定と自己肯定の狭間で(東大附属時代の雑文)

 東大附属時代の終わり頃に書いた雑文。
 ときどき人生の試練を受ける。あの頃もそうだったかも知れない。
 「ぼくは駄目な教員だなあ」と思いつつ、「ぼくはこれでいいんだ」という
自己肯定の気持ちもあっただろう。
 いま、「韓伽羅」で飲みながら、その当時を少し思い起こした。

 
 今日は大学の業務をやってから飯田橋駅付近の喫茶店で、ツレと共著の原稿
図版を担当編集者に渡した。
 すでにぼくの単著ぶんの原稿を渡してある。これでその出版社の約束の2冊
ぶんの原稿を渡した。
 しかし精神的に疲労感がある。それは大学の業務に関することだ。
 あと今日は年金機構の年金ダイヤルに電話。年金の手続きについて聞いた。
長かったのが公務員共済。それから私学共済、今の法政は厚生年金。64歳か
ら年金が貰えるのでそれまでに手続きをしなくては。 
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○喜びに満ちて学校に行っているか

 かつて、ぼくは、いそいそと恋人に会いに行くように学校に行く、授業に向
かう姿を理想にしていた。
 20ウン年の教員経験の今でも、その気分を大切にしたいと思っている。
 ところがどうだろう。
 これを書いているのが12月だからというわけでもなく校内で教員たちが走
り回っている。
 非「進学エリート校」の本校ではいろいろな問題が噴き出しては、その対応
に追われている。じっくり授業の構想を立てたりする気分がおこってこない。
年々子どもの心を捉えるのが難しくなっているような感じがする。同僚がぽつ
りと言う。「意欲がわかないなあ。」その言葉に共感する自分がいる。楽天
のぼくも、ときとしてめげそうになることがあるのだ。
 現場の多忙化の中で、「初心」(たのしくわかる授業がしたいなど)を失っ
ていないだろうか?

○子どもにとっていい教員像はさまざま

 もし題が“「教員の人間性に不満を持つ子ども」対応策の決め手”だったら、
それはかなり無理な話だなあ、と思った。
 まず、一人ひとりの教員が全部の子どもから不満を持たれず共感されること
があるのだろうか。それは、大変難しいことだ。 たとえば自分を振り返って
みる。長身で存在に迫力あり、性格は明朗快活、ざっくばらん、はきはきした
話し方で、怒るときはこわいが笑いの絶えない授業で教え方もうまいつもりだ。
キャラクターとして子どもたちに受ける要素をたくさんもっているかもしれな
い。しかし、「ざっくばらん」ということで一部の子どもに支持される反面、
一部の子どもには「細かいところまで指導してくれない」という批判も受ける。
 しかし、人間性はかんたんには変えられない。「そのままの自分」で、授業
内容や方法なら何とか変えられるかもしれない。