左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

理科を学ぶということ

○理科を学ぶのは当然のことか?
 「すべての子どもたちに学校で理科を教える目的は何か?」という問いに答えることは、簡単そうで難しいものです。
 まず個人レベルで考えてみましょう。
 子ども時代に理科(自然科学)を学習しておかなくては、自分の健康を維持することはできません。
 人の生命維持には、最低限、食物・空気・水が必要です。それらのものについて人のからだのなかでの役割や仕組みなど正しい基本的な科学知識がなかったら生命維持は難しくなるでしょう。
 およそ日常生活を営むにも、自然科学の知識が必要です。科学の知識がなければ、もっともっと火事が起こったり、感電などいろいろな事故が起こっていることでしょう。
 わが国の大人の傾向として、「科学はわからないけど大切だと思っている」ということがあります。そこで一見科学っぽいものに惹かれる傾向があります。科学と無関係でも、論理などは無茶苦茶でも、科学っぽい雰囲気をつくれれば、ニセ科学をほいほいと信じてくれる人たちがいます。そこで、たとえば、病気になり藁をもすがる人たちや今は健康でも不安をもっている人たちに、「科学っぽい装いをしている」あるいは「科学のように見える」にもかかわらず、とても科学とは呼べないような説明をして高額な健康によいとする機器や食品などを売りつけようという人たちがいます。狙われるのは科学知識のない人たちです。
 地球環境問題や身のまわりで起こっている水質汚染や大気汚染などの公害問題などで市民が行動を起こしたり、選挙で投票の意志決定をするのも、今日では、科学知識が土台の一つになっています。
 労働者として働くときにも科学知識が必要な職業がたくさんあります。会社の営業職でも扱う商品が科学と技術の産物なら、その商品についての基本的な科学知識が必要でしょう。
 さらに、科学と技術が社会のさまざまなところに深く広く入りこんでいる現代社会では、自然科学的知識なしには、どんな経済行為も政治行為も成り立ちません。
 国家や社会レベルでは、社会にとって不可欠な科学者や技術者、医師その他の科学専門家を養成するためには学校の理科学習が土台になります。
 わが国のように資源が少ない国では「科学技術立国」がいわれます。国家戦略として国が経済的に豊かになるための方策として、学校理科の充実策をとることがあります。
 こうしてみると、個人レベルから国家、社会レベルまで、学校で理科を学習するのは当然ということになるのかしれません。
 ここで教育への社会的要請についてもふれておきましょう。
 教育には社会からの要請が、おもに産業界から学校教育に産業的マン・パワーの育成の要望が強く打ち出されやすい面があります。戦後、重厚長大な産業(扱う製品が重く、厚く、長く、大きいことから、それらの頭文字を取った造語。鉄鋼、セメント、非鉄金属、造船などの産業)に人材が必要なときは科学技術教育振興が叫ばれ、理科の授業時間や内容量が増やされました。産業構造の転換で軽薄短小の時代になると、知識よりは「態度」が重視されて「ゆとり」教育がいわれるようになります。


○もっとしゃれた言いまわしで
 「科学教育の目的を、しゃれた言いまわしで表現することもできる。」と田中実は述べています。
 「人間はがんらい、ホモ・サピエンス(思索者)でもあれば、ホモ・ファベル(製作者)でもある。人間は社会的存在であるから、ホモ・ポリティクス(政治者)であり、社会は経済行為なしに成り立たないから、人間はまたホモ・エコノミクス(経済者)である。そして人間は、なんらかのたのしみなしには、積極的にはレジャーなしには生きがいを感じられないから、ホモ・ルーデンス(娯楽者)というべきである。人間のそうした諸側面のどれをとっても、現代では,自然科学の知識なしには、満足な活動をいとなむことができないのだ。」
 筆者は、この言いまわしから学ぶべきは、人間とは何かを考えるときに「なんらかのたのしみ」なしには「生きがいを感じられない」ホモ・ルーデンス(娯楽者)の立場の重視です。科学を文化の一つとしてとらえて科学を愉しむことができるという目的が立てられるでしょう。


○難しいのは客観的根拠を与えること
 田中実は「教育目的論につきまとうむずかしさは、議論に客観的根拠を与えることにある。目的設定とはひらたくいえば効果に注文をつけることであるが、期待するとおりの効果が実際あらわれるかどうか、これは概していえば測られないことである。」と述べています。
 学校で学んだときに即テストを行ったときの成績で、そのときの科学理解についてある程度わかるかもしれません。
 しかし、「あとあとまで,自然科学を学んだことの効果が、どのような形で残るかということは、べつの問題で」です。
 設定した目的が期待した効果をもたらしているかどうかは、一定の科学知識が応用の効く形で記憶されていなければ意味がありません。とくに「自然科学の学習をさらにつづけることもない人間の場合には、どういうことになるだろう。自然科学の知識を日常的に応用するような職業についていない人間の学力は、記憶がうすらぐとともに低下してゆくのが普通であるから、この考え方からすれば、科学教育の目的として、以上に列挙したことは、非常にあやしいことにな」ります。
 ここで問題なのは、「学校を終えてからは、使いもしなければ、記憶もしないような知識」です。そういう知識を「教えておきながら、あたかもそれらが記憶され、活用されるかのように仮定し、そのことを土台として目的を云々するのは、まちがってはいないかという議論が成り立」ちます。
 そこで、「考え出されている多分に想像上の効果の一つは、いわゆる能力・態度・思考力など、自然科学の実質的知識をともなわない知的機能の形成で」す。
 「このためには“転移”という仮説が用意されている。人間の知能という可塑物を、自然科学という昇華性の材料でできた鋳型にはめると、そのうちに鋳型の方は昇華して実質は消失し、論理的操作の能力という持続性のある形式だけが知能に形を与える」という「形式淘冶説」です。「この種の効果をことごとく否定してしまうことはできないが、ことごとく信用してしまうことはいっそう大きなまちがいのもとであろう。少くとも、科学教育の効果判定の基礎理論として採用するだけの証拠は、まだ出されていないのではなかろうか。」
 こうした、知識が残らなくても能力・態度・思考力は残るとして、この考えを固執すれば、「かえって消化不能の知識を強要したり、実質のない“科学的思考”で子供を混乱させることになるだろう。」


○学校は、文化の総体を次世代に伝えるところ
 「学校という制度は、一般的には人類が、具体的には国家やその他の共同体が、人類と民族の文化の総体を、世代から世代へと伝承してゆくたために設ける制度化された装備」のひとつです。「人類にとって生存、すなわち維持と発展が自己目的であって、生存を保証するものが文化伝承である以上、学校教育にとって、文化の総体を教師を通して次の世相こ伝承することは、それ自身が目的であるといわねばならない。」と田中実は述べています。
 「学校教育の基本的目的」が、「文化総体の伝承であるとすれば、学校の自然科学教育の目的は、自然科学そのものを少年・少女に彼らの受容能力に合致した形で、完全に伝え、彼らがやがて専門家としても非専門家としてでも、現在の科学を継承、発展できるように教授すること」になります。
 そして大切なことは「科学を学ぶこと自体が、精神発育期の人間にとって、ひとつの生きがいであることを自覚させる」です。科学の「価値について説教するだけでは無意味で」です。「科学の人間的・社会的価値は、科学をよく理解することによってはじめて、自覚的にわかるもので」です。


○科学的世界観の形成を
 「義務教育における自然科学教育は、ますます増大する科学・技術系高等教育への志望者に基礎的訓練を与えることと、実生活では、もしかすると、自然科学的知識をそれほど使わなくてもすむようになってゆくかもしれない非専門家になるであろう子どもたちの教 「自然科学教育は、将来、科学と技術の専門家となる者にとっては、発展性のある理論的・実践的基礎を与え、そうでない者にとっては、世界と身辺でおこっている自然科学にかかわりのある現象を理解する普通常識と、さらにそれ以上に科学が思想として定着できるようにしなければならない」のです。
 大切なのは「科学が思想として定着する」ことです。それは、「結局のところ、科学的世界観の形成ということで」です。
 「素粒子から人間および宇宙にいたる世界のダイナミックな構造を把握することは、自然における人間の位置と、人間相互の関係(人種観までふくめて)、人間の未来に対する理解と見とおしを与えることにな」ります。
 「こうして科学的世界観も人間を除いた自然にとどまらず、自然の一部分としての人間および社会についての科学的見解に融合する。
 こうして科学的世界観は,人間は何のために科学と技術を所有し発展させるか、どんなことを指して科学と技術の誤用というか、科学と技術は何に奉仕しなければならないかなど科学の価値観につながる。自然科学は真理探究と技術開発をふくめて、人間をどのように変革してきたか、人間の未来によこたわるどんな問題を解決してゆくだろうかということについての知識は、ほんとうは自然科学教育者が子どもに正しく伝えられることで」なのです。
 科学的世界観の形成は、科学を文化の一つとしてとらえて科学を愉しむことができるという目的そのものでもあります。
 「科学そのものについて、科学と人間のかかわりについて、考え、本を読み、テレビを見、博物館を訪ねることが、人間の愛とたたかいを描いた文学作品を読むことと同じくらい、民衆に愛好されるようにはならないものだろうか。そうなれば、われわれは科学教育の効果についてあれこれと迷ったり、社会的目的について、懐疑的になったりしなくてすむだろう。自然科学教育は学校ではじまるのであるが、学校で終りにはならない」のです。

*稚拙な論ですが、『授業に活かす!理科教育法 中高校編』(東京書籍)に書いたものです。