左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

何という幸せ(ぼくはラッキーだった!)

 土曜日は講義が3コマも続いている。前期は13時半から18時20分まで(後期も3コマだが午前1コマ午後2コマで16時40分に終わる)。他に火曜日に化学基礎の講義1コマがある。つまり火曜日と土曜日さえちゃんと講義をすればいいというわけだ。
 いま、3コマの講義を終わって、思うにこんなに好きなことで暮らしていることはラッキーだったと強く思った。(前にも同じようなことを書いたかも知れない。)
 そこで定年を迎えるつもりだった東大附属にいたら、すでに定年退職をしているところだ。
 それが年金を貰う64歳までは働ける(少なくても65歳までは保証されている)。法政大学は70歳までという道が普通なのだが、すでに何度か書いたように65歳でリタイヤで十分という感じである。すでにツレが定年退職しており、ぼくもリタイヤしたら一緒にいろいろと旅したりしたいと思っている。経済的な面は心配要らない。


 大学院を修了したときに某県の高校化学と埼玉県の中学校理科の教採に合格し、事情があって中学校理科教員になった。
 おかげで理科教育に打ち込むことになった。好き勝手に理科の授業をしていた。
 若くして理科教育の雑誌の編集委員にもなった。理科教育について少しずつ発信できるようになった。


 その春里中学校教員生活も8年にもなったとき、東京大学教育学部附属中・高等学校に移動することになった。高等学校で主に化学を教えるようになった。中学校理科も。
 そこでも好き勝手に理科の授業をしていた。
 大学でも東大の理科教育法や他大学で集中講義などで講義を持つようになった。
 理科教育関係の本を出すようになった。
 

 東京大学教育学部附属中・高等学校が中等教育学校になり、職場の中で年齢が上の方になり、教務主任などもやるようになった。
 しかし、ぼくの頭にはいつも理科教育があった。
 そろそろ大学に出ようかと思ってきた。いくつか公募に出し、結局は京都工芸繊維大学に教授で移った。これもラッキーだった。そこでAO入試のプランニングと実施を行ったが、「ゆとり」教育のマイナス面も考えるようになり、有志200名を集めて検定外中学校理科教科書をつくった。入試時期以外は余裕のある仕事場だったのが幸いした。東大附属にいたままなら検定外中学校理科教科書(『新しい科学の教科書』3巻)をつくろうという気は起きなかっただろうし、もしそういう気が起きたとしても物理的に無理だったろう。



 京都工芸繊維大学のAO入試のプランニングはできたので同志社女子大学で小学校理科教育を教育・研究することになった。これもラッキーだった。同僚も気持ちがよい人が多く、ぼくにとって新しい研究分野である小学校理科教育について存分にやれた。京都工芸繊維大学時代より給与がウン百万/年上がった。一番よかったのは週に3回ほど行けばよくなったことだった。京都工芸繊維大学時代は入試のセクションだったのでほぼ毎日行っていた。
 そして、ちょうど学科が完成年度になり、ぼくは法政大学に移った。家族の元に帰れた。
京都の7年間は楽しかった。祭りや見どころが多かった。関西に友人が増えた。


 東京に戻ってから大学外の仕事は増えたが、やりがいのある仕事だから大変でも引き受けている。東京にいるので『RikaTan 理科の探検』誌編集長の仕事もしやすい。出版社との打合せもしやすい。
 同志社女子大学と法政大学では雰囲気や給与などが前者のほうがよいと思うが、プラスマイナスするとプラスだったろう。嫌なこともあるが、まあ、笑い飛ばしておけばよい。
 今のところ、自分はラッキーだったと好き勝手なことをやって暮らしていける幸せを何度も噛みしめることができるのが嬉しい。
 

 工業高等学校時代、自分の将来に明るい展望を持てなかった。学力劣等生で人間関係駄目の人間だった。いつも、ぼくはそのときのことを基準において自分の今を見ている。すると、いつもぼくはラッキーなのだ。
 今後ガンなどになるまではぼくはラッキーだったと思い続けるだろう。