左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

2年前に被災地を回ったときの左巻健男手記…今年4月27日福島で科学教室の翌日福島を回る予定

 この前の記事に4月27日福島で科学教室のチラシが入れてある。28日には福島を回る予定だが、2年前の同じような時期に被災地の一部を回ったときの手記を載せておく。
 それから手記を載せた本の前書きを画像で入れておく。 


『大災害の理科知識Q&A250』新潮社 2011.6


 消えた海辺の町、沈黙の山村


 左巻 健男


 4月末から5月1日にかけての連休を利用して、被災地の一部を回った。
 仙台1泊、郡山1泊の駆け足だったが、現地のRikaTan委員や旧友が案内をしてくれたおかげで、無駄なく回れた。みんな理科教員だ。
 初日は仙台から名取へ回って気仙沼へ北上し、フェリーで気仙沼大島にも渡った。翌日は福島県郡山市から川内村へ入り、葛尾村立葛尾中学校へ行き、浪江町津島の「DASH村」入り口、大柿のトンネル付近では調査(線量計で測定)を行った。その後、飯舘村経由で南相馬市へ。その後、海岸線を、鹿島、磯部と北上した。


●これが津波の被災地なのか…
 初日に案内してくれた加藤琢哉さん(仙台市教員)の実家は仙台市内、3階建てのビルだが、地震で住める状態ではなくなり、出入り禁止のロープが張ってあった。しかし、仙台の市街地はところどころ地震によって崩壊はしたが、大部分は普通の暮らしが成り立っているようだった。
 ところが、海岸に近い津波の被災地はまったく様相を異にした。最初に回ったのが仙台の南、名取市閖上(ゆりあげ)。“閖”という字は、この地名にしか使われていないという。仙台藩4代藩主伊達綱村公が仙台市内の大年寺から、はるか東の「ゆりあげ浜」を望み、「山門の中に水が見えたので、門の中に水という文字を書いて『閖上』と呼ぶように」命名したという話を聞いた。もともと海辺の低地だったのだろう。
 近づくにつれて、田んぼに瓦礫が目立ち始める。やがて車は、あちらこちらで重機が瓦礫を片付けている場所へ。まわりはほとんど家はない。すでに瓦礫もある程度片付けられて、見通しのよい(ほとんど何もない)平らな土地になっていた。少し形が残っていたある家は、1階は太いコンクリートだけの吹き抜けで、2階の住居らしき部分がかろうじて残っていたが、その内部はめちゃくちゃになっており、瓦礫がギッシリ詰まっていた。
 小高い塚に登って周りを見た。もともとは家が密集していたというが、ほぼ何もない。漁港に少しばかり建物が残っていたが、やっと立っているという感じだ。塚から下に降りて、家々の基礎を見て回った。そこには、津波が来る直前まで、楽しい家族の日々があっただろうと想像できる、様々な品が転がっていた。


気仙沼大島・展望台の風景
 気仙沼の市街地に近づく。最初は普通に家々が並んでいた。しかし、港へ近づくと風景は一変した。形は残っていても内部に瓦礫が詰まっている家ばかりだ。風光明媚な大島に渡るフェリーから見ると、南部の低地はほとんどが流されていた。大きな石油タンクもまるでひねり潰したように転がっていた。津波が100回以上も寄せては返し、そのたびに燃える船などが陸に火をつけたという。港には、火災で黒焦げになった船が3隻つながれていた。陸にも中型船が乗り上げていた。
 僕は、昨年11月初旬、RikaTan誌の連載「休暇村紀行」のために気仙沼大島を訪れていた(掲載は、本年の1月号〈注…2011年1月号〉)。「気仙沼湾に浮かぶ“みどりの真珠”といわれる東北一大きい有人離島」と紹介した。行ってみると、リフトの上の駅が大きく焦げていた。大規模な山火事があったようだ。


●振り切れる線量計
 翌日は福島だ。第一原発から20 km圏内は立ち入り禁止になったばかりだ。原発に向かって進むと、さっそく、川内村保健福祉医療複合施設「ゆふね」前の検問所で引っかかった。付近の墓地は、地震で墓石がいくつも倒れていた。首輪をした犬が2匹、寄ってくる。人恋しい様子だ。線量は「1.55 μSv」。
 次にテレビ番組で有名な、津島の「DASH村」入り口に行ってみた。門は閉ざされていたが、門付近で「25.4 μSv」。かなり高い。「9.9 μSv」までしか計れない線量計は、そこで止まった。
 驚いたのは、大柿のトンネル付近だった。タンポポの咲く地面近くで「128.9 μSv」。「30 μSv」まで計測可能な線量計も、さすがに「OVER」の文字を示さざるをえない。タンポポ放射性物質がこびりついているのだろうか…。ここにも警察の「立入禁止」の看板があったが、警官はいなかった。そりゃそうだろう、こんなに線量が高いのでは、いられるわけがない。そのほか、川内村葛尾村浪江町飯舘村では、検問所の警官以外、時折行き交う車を除けば、ほとんど人の姿は見なかった。
 途中、林と田畑、清冽な流れの川があった。サクラ、コブシやタヌシバの花が咲いている。しかし、そこも沈黙の村だった。
 案内してくれた川内村立川内中学校(現在郡山市内に間借り中)の渡部昌邦さんは、かつての勤務校で、「100校プロジェクト」(100校の学校をネットワークで結ぶ教育実験)を行っていた葛尾村立葛尾中学校にも寄ってくれた。自然に囲まれた校庭の広い学校だが、子供たちの声は聴こえない。全校「疎開」中なのだ。


●アリの復興
 南相馬市の鹿島、相馬市の磯部の津波被災地もひどい状況だった。磯部などは150世帯ほどが全滅していた海岸近くに建つ「相馬海浜自然の家」は、残された建物に松の木が何本も突き刺さっている。裏手の「体育館」は、土台だけ残して完全になくなっていた。近隣の広大な松林も、根こそぎ倒され、流されていた。
 どの被災地を見ても、いたたまれない気持ちになった。
 自然の家近くで、ふと足下を見ると、アリたちがせっせと巣を「復興」していた。分厚く積もった砂で巣も壊されたのだろう。その砂をかき分けて、水仙も花を咲かせていた。
(以上)