左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

左巻健男が理科が好きになったわけ 〜たった一言で人生が変わる〜

 理科の探検(RikaTan)誌 2015丸ごと自由研究3号 通巻16号 編集長エッセイ

 
            理科の探検誌編集長   左巻 健男 SAMAKI Takeo


 ぼくは理科が大好きです。60歳代後半になっても理科や自然界への興味・関心が落ちることはありません。
 しかも、職についてから、ずっと「理科教育」専門でやってくることができました。
 工業高等学校工業化学科を卒業し、大学でも大学院でも物理化学を専攻した化学系のはずなのですが、最初に勤めた中学校で理科にはまりました。化学だけではなく、物理も生物も地学もおもしろいと思ったのです。よく同僚に「この学校で、毎日喜んで学校に来ているのは左巻さんくらいね」などと言われていました。
 中学校の理科教員の次には高等学校化学をメインとした中・高等学校の理科教員になりました。 生徒たちと理科の授業に格闘したことをもとに雑誌に書いたり、本を書いたりしました。今では表紙にぼくの名前がある本で2百冊を超えています。15年前に大学に転じましたが、今でも小学生と理科授業を、先生方と理科実験をたのしんだりしています。
 ぼくが理科が非常に好きになったのは、小学校5年生の時の担任平原タイ先生の一言からだったのです。

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 ぼくは栃木県小山市のはずれで貧しい農家の家に初めての子ども、長男として生まれました。両親はさぞ期待をしたことでしょう。
 しかし、ぼくはどうも知的な面で発達の遅れがあったようです。小学校入学前に数を数えられたり、ひらがななど基本的な文字を書けるようにと一生懸命に指導しようとした両親は、そのどれもができないことを見いだすしかなかったのです。そこで、ぼくは、その後、両親から「勉強しろ」「宿題をしたか」などの言葉は一切かけられなくなりました。知的な面であきらめられたのです。学校からの通知表にも成績評価の低い数字が並び、「宿題をやってこない」「忘れ物が多い」など否定的な所見が書かれていました。
 ぼくは学校の授業がわからないので、授業中、教科書やノートの余白にはマンガを描いていました。それに飽きるとまわりの子らに紙つぶてをぶつけたりしていました。
 学校で先生に褒められたことは一度もありませんでした。担任が平原タイ先生になるまでは。

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 若い平原先生が担任になって、まずぼくは授業中の態度から、教卓の真横の特別席に移されました。これは本当に嫌だったです。授業中にいたずらがしにくいのです。
 あるとき、平原先生は、ぼくに「左巻君は理科ができるね!」と言いました。どんな状況だったかはまったく思い出せませんが、この一言は学校で先生に褒められた最初のものだったのです。
 ぼくは、「そうか、ぼくは理科ができるのか」と初めての褒め言葉に驚喜したのです。
 それから、ときどき、ぼくは図書室で理科関係の本を読むようになりました。
野山や川で存分に遊んでいたことに加えて、新たに活字から未知の世界の魅力を知ったのです。理科の本だけではなく、探検物や推理小説なども読むようになりました。未知への好奇心は、今もぼくをゆり動かしています。