ぼくに「誇り」がある。酷い学力劣等生から大学・大学院へ行き、教員になれた。
大きな転機は高校生のときにあった。
要約的には次に書いた。
2011-02-05 ゼロからの旅立ち(高校生のときの原点)
http://d.hatena.ne.jp/samakita/20110205/1296881369
より詳しくは、本ブログの過去ログに3回に分けて書いた、「左巻健男の原点は工業高校2年生になったばかりの春の決意」にある。それを以下にまとめておく。
来週のスケジュールを手帳に書き込んだ。「分」刻みで動いている超多忙者と比べるとスカスカだと思うが、ふつうの大学教員、ふつうの学校教員と比べると超多忙の部類だろう。本当なら本務の大学の仕事だけでもこなしている(それに研究などもプラスして)だけでも結構充実して過ごせると思う。どうもぼくの場合、大学の仕事の何倍かの仕事を抱えている。いや、それらは大学の仕事と無関係ではない。学校の理科教育、一般人向けの理科教育、科学コミュニケーションなどの仕事だからだ。
中学校3年生の頃、「君はこのクラスで成績が最低だ!」といわれ(本当は下から二番目)、痩せこけて弱々しい少年だった。やっとの思いで工業高等学校工業化学科に入学。
そこでも落ちこぼれていくつかの追試を受けて高校2年生になった。16歳だった。
ぼくは3つの致命的弱点を持っていた。
・学力が低すぎ
・人とうまく関われない・人とうまくしゃべれない・友人がとても少ない
・手先が不器用・体力が弱い
16歳は思春期である。自分の未来を描いてもそこに小さな灯りさえも灯っていなかった。「いったい自分はどうなるのか…。」 不安と恐れが支配していた。本は少しは読んでいたのでイマジネーション力はあったと思う。暗い未来。
そのとき、世の中を知らないぼくはほんの少し足を前に出そうとしていた。「化学の研究者になろう!」
工業高等学校工業化学科にいて、専門の化学をよくわからなかったが、化学は好きだった。実験はとくに好きだった。
世の中を知らないぼくは人とあまり関わらずに一人化学の研究室で試験管などを振っているのが化学の研究者だと思ったのだった。「それならぼくでもできるかも知れない。しかし、ある程度の大学に行かなくてはダメだろう、できれば東大がいいだろう。」とは思った。英語も数学も国語も、専門の化学でさえ、大学受験のレベルではなく、その工業高等学校工業化学科でも下のほうだった。東大は無理でも東工大に、などと考えた。それなら数学を何とかしなくては。
2つの選択肢があった。
「中学校数学からやり直す」というのが普通だと思うが、それだといつまでも高校数学に行き着かないような気がした。「よし、高3の数学を独学しよう!」
できるだけやさしい高3の数学の参考書を買ってきた。
例題が丁寧だった。しかし、ぼくは例題の解き方の1行目から2行目、2行目から3行目に行かないのだ。当たり前に使っている数学のやり方を理解していなかったからだ。
5分もたたないうちに鉛筆を投げ、参考書を投げた。
しかし、数学を何とかしなくては大学に行けない。
いつしか、30分、1時間…と集中できるようになっていった。
結果的にだが、数3を自学自習で予習していくという選択は正しかった。
中学校数学からやり直す道もあった。それは、目標の山頂があったとしたら麓から一歩一歩登る「階段型」の道だ。ぼくが選択したのは、麓のところもろくにクリアしていないのに、無理に8合目に登ってしまって、そこから麓を見下ろしながら山頂を目指す道だった。もともとの自分のレベルが麓レベルだったのに、学習していくうちに基礎・土台レベルが5合目くらいになり、次第に引き上げられながら、8合目から9合目へと向かっていた。「高いレベルの学習による基礎引き上げ効果」か。
4月から開始した数学の自習も8か月近くが経った12月に担任との2者面談があった。
担任の気持ちとしては、ぼくが3年に進級できるか、就職希望としてもどうも人間関係が駄目で心配、というものだったろう。
「左巻君は将来どうするの?」
その答は、「国立大学に行きたいと思っています。」
担任は驚いた顔でぼくを見つめて言った。「勉強しているのか?今に学校の成績も上がってくるのか?」
数学の自習を続けていても、学校の中間・期末テストの成績は悲惨だった。数学だって高2の数学はまだよくわからなかった。工業高校の学力落ちこぼれの生徒が、何十年か国立大学進学者がいない学校にいながらそんな答をしたことに驚いたことだろう。
「はい、今、少しずつ勉強していますから高3になると成績が上がると思います。」
高2から高3になった。追試はだいぶ減った。成績はよい方向へと向かっているようだった。
高3の数学は授業内容がよくわかった。ほぼゼロの状態から自学自習していたことが効果を表していた。
1学期の中間試験が近づいたある日、ぼくは担任にやすり板、ロウ原紙、鉄筆などを借りた。今ならリソファックス等で簡単に印刷できるが、当時はガリ版印刷だった。
ぼくは何を思ったか、クラスの生徒たちに「数学の試験対策」のポイント・解き方をまとめたプリントをつくって配ったのだ。
思えば高2の春に「化学者になろう!」と決意して勉強を始め、ゼロから高3の数学(極限・微分・積分)が少しずつわかってきていた。
高3の1学期中間試験が近づいてきたとき、少し勉強の習慣ができてきていたぼくは、試験勉強をした。もしかしたら1日に2,3時間でも試験前に勉強をしたのは初めてのことかも知れない。授業も高1高2のときとは格段に違っていた。高1高2の数学がまったくといっていいほどわからなかったときとは違ってわかるのだ。
ガリ版印刷をしてクラスの人たちに「数学の試験対策」のポイント・解き方をまとめたプリントをつくって配ったのは、数学がわかってきたことの嬉しさからかも知れない。
よかったのは、そのプリントを「おい、左巻!なんだよ!これ」といいながらもみんなが受け取ってくれたことだ。クラスの中で、いるかいないかわからない影の薄い存在で、勉強もできない、運動能力も弱い、ひょろひょろしたぼくが何をやろうとしているのか?「あの左巻が数学だってよ!」という気持ちだったろう。
次の日の朝、クラスはちょっと雰囲気が違っていた。
「昨日の数学のプリント、すごくわかりやすかったぞ。」読んでくれた何人かが言った。「本当かよ」と言う声。
次の日、プリントを褒めてくれた声がさらに増えた。「期末もつくってくれよ!」
ぼくが苦労してやってきたことを元につくったプリント。感謝の声に、ぼくは大いなる達成感を覚えた。「ぼくでも役に立てることがあるんだ!」 社会的意義のある仕事をすることの喜びを知った。
その瞬間、「数学の教員になろうかな」と思った。数学で落ちこぼれていたぼくが、ゼロから数学を独習して少しわかってきた…そんな経験をもった人が数学を教えた方がいいのではないか。
しかし、ぼくはすぐに本当の現実を知っていた。工業高等学校で数学が少しばかりできても大学受験の数学には未だ歯が立たなかった。模試を受けに行っても5題あったら、小問集合の1番が何割かできるだけだった。「やっぱり、化学へ行こう!」と思った。
次々と試験が採点されて戻ってきた。どの教科も高1高2のときと比べて点数が高くなっていた。「今回は成績がいいぞ」と思った。
ある日の朝のショートホームルーム。
担任の小川先生は、「昨日は成績会議だった。ぼくは長いこと教員をやっているが生徒がやっと自分の力を出したのが嬉しかった。ある生徒が成績が1番になった。他の先生方から“不正行為があったのではないか”と言われたが否定した。」
ぼくは、「あー、それはぼくのことだ…。」とわかった。
これがぼくの原点だった。
その後いろいろなことがあって、理学部化学科に進学できずに、教育学部中学理科課程に進学し、そこで物理化学教室に属し、さらに大学院で物理化学講座に属した。
化学者の夢は挫折したが、化学教育、理科教育へ方向転換してから、中学校理科教員→中・高等学校理科教員→大学教員と理科教育を専門に今まで来た。
講演でぼくはときどき「教員になったとき、教卓の向こう、生徒側にかつてのぼくがいるとして理科授業をやってきた。好奇心があるのに学力的に落ちこぼれてわからないので授業が苦痛で、教科書やノートの余白にマンガばかり描いていたぼくでも楽しくわかるような授業がしたいと。」と言っている。