左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

旧中山道徒歩旅行の記録(2006-2007年 左巻健男)

 【長文です!】2006-2007年に行った旧中山道徒歩旅行の記録です。


●さあ、スタート!

・1日目 4月28日
 ついに中山道徒歩旅行のスタートです。この計画を立てた後に、検定高校理科教科書の指導書執筆の会議が入ってきましたが、この計画優先で断りました。
 京都三条大橋を7時20分にスタート。
 懸念は冬にベトナムハノイを歩いていたときに右足かかとに痛みを感じたのが今も続いていることです。
 草津宿までは旧東海道と重なります。
 持参したガイドブックは、『中山道を歩く』(山と渓谷社)と『中山道69次を歩く』(信濃毎日新聞社)の2冊。
 はじめは山渓の本を見ていたのですが、細かいところがわからないので、『中山道69次を歩く』のほうを見るようになりました。略図に「たぬき像」などポイントが入っていてわかりやすい。見づらいがその略図と合わせて地形図もあり、合わせてみると細かいところもわかります。ただし、略図の距離が曖昧です。
 蹴上を過ぎると日ノ岡集落の細い道に入ります。
 東海道を歩いたときに印象に残ったのが亀の水不動。1837年に日ノ岡峠の改修工事が完成したときに木食上人が牛馬の渇を癒すと同時に旅人に湯茶を提供したところです。
 ぼくは牛馬でないけれどここで渇を癒しました。
 3時間ほどで大津に到着。
 電波をつかまえてメールをチェック。生源寺さんから5月1日に加納宿(岐阜駅近く)で「労をねぎらいますよ」というメールがありました。楽しみです。
 山の店でLEDのヘッドランプも買いました。夜歩くときに必需品。LEDのライトを持っているはずなのに朝に見つからなかったのです。
 「初鰹 かつおたたき 一本釣り…」というのぼりがはためくのを見て昼食をとることに。かつおたたき、鯖寿司、大豆・ヒジキ、豚汁。
 歩きながら生物工学会の和文誌に書いた2006年問題のゲラ校正し、携帯で校正箇所を連絡。
 湖岸通りを歩き、膳所城趾も見学。大津から草津までは14km。大津までのペースト比べるとずっと落ちています。休み休み歩きます。
 草津東海道中山道の追分である隧道前に着いたのが16時近くになっていました。
 そこから守山まで6km。ちんたら歩いて18時前に到着。
 江戸時代には健脚の人はさらに14kmの武佐宿まで行ったようです。守山泊まりは女性の場合でした。江戸時代の健脚組は1日に40kmは当たり前。しかし、ぼくは30kmほどにしようと旧東海道を歩いたときに決めました。
 ホテルは守山第一ホテル。安いのですがネットにつなげません。一休みしてから夕食に出かけました。鍋焼きうどん、鳥キモ、野菜、ビール大瓶2。うーん、食べ過ぎかも。
 歩いている途中に連れ合いから電話が二度。ちょっと嬉しいかな。
 こんなことをやれる余裕と体があることに感謝。
 #本日の距離31km。歩数37857歩。

●銅鐸出土碑・銅鐸博物館に寄る

・2日目 4月29日
 守山宿では6時50分から歩き開始。昨日久しぶりに休憩を除いて9時間くらいは歩いて疲れが全身ににじみ出ている感じです。
 野洲川ではカワセミを見ました。幸先がよいかもしれません。
 途中で「銅鐸出土碑・銅鐸博物館まで0.7km」の表示。銅鐸博物館には大岩山から出土した、弥生時代の祭器とも楽器ともいわれる銅鐸が展示されています。出土品には日本最大のものもあります。「未だ開館していないだろうけど碑だけでも見てくるか」と向かいました。
 碑を見てから銅鐸博物館にも。今日は特設展の準備ということで職員が何人かいました。「9時までロビーで待ってて」といわれたのを無理にお願いし見せて貰いました。
 日本一大きな高さ134.7cm、重さ45.47kgの銅鐸は迫力がありました。
 大型の物は「音を聞く」のではなく祭礼の中心として「見る」ためらしいです。
 パンフレットに、「銅鐸は、今から約2000年前、弥生時代に造られた青銅製の“まつりのカネ”です。その鋳造技術は、中国、朝鮮半島から伝えられました。
 銅鐸はやがて、大型化し、飾られるようになるにしたがって、いわゆる“聞く銅鐸”から“見る銅鐸”へと変化していきます。米づくりが広まり、金属を手にした弥生時代には、豊作を祈り、収穫を感謝するまつりの場に銅鐸がありました。やがて力をえた支配者はムラムラを治めるようになると、共同のまつりをやめ、古墳を築きはじめます。
 こうして古墳時代を迎えるころになると、銅鐸のまつりは終わりをむかえます。」とありました。
 古墳を覗いたりして、又中山道を歩きます。
 国道8号線に合流したときには篠原堤(ため池西池の長い堤防)を歩きました。たくさんの羽虫に囲まれました。ガイドブックにもたくさんくっついて、つぶれた羽虫を見ると体液が緑色だったです。
 道の駅「竜王 かがみの里」に寄り、かき餅とおかきなどいろいろ買いました。
 食べながら歩きます。朝は「ソイジョイ」1本だけだったもんな。
 それからは武佐宿までは辛かったです。半分は国道歩き。国道にはレストランがいくつもあり入りたくなりましたが未だ11時台だからと入りませんでした。
 やっと12時に武佐宿に到着。(守山−武佐は14km)
 武佐宿には食堂・レストランらしきものがなく、やっと午後1時頃に国道沿いのドライバー用の食堂に。そこでセイロン風超辛カレーを食べました。
 国道8号中山道の分岐点に「てんびんの里像」。てんびんは近江商人の象徴なのでしょう。愛知川宿を超え、高宮宿を目指します。ほんの一部(愛知川にかかる橋のあたり)しか国道と重ならず旧道歩きなのですが、両足の足裏に圧痛が。うーん。東海道歩きの時も宿に入って靴下を脱いで歩こうとすると足裏が痛くて歩きづらかったなあ。それでも次の日には歩けるようになりました。そして夕方に宿に入ると又手で他に寄りかかりながら歩いたりそろりそろりと歩いたりしました。
 今回はどうなるかなあ。次第に圧痛が強まることにならなければいいが。
 右足かかとはあまり気になりません。
 ときどき休憩しながら歩きます。
 休憩の時には足裏は圧力から解放されて、じんじん血液が足裏に流れ込んでいく感じがします。
 道の両脇には立派な造りの家がたくさんあります。
 そういう昔ながらの造りの家には蔵がついていて、それも立派です。
 近江商人たちが財を築いてそういう家を建てたんだろうと思いました。
 18時前に高宮宿に着きました。ふー。
 電車で彦根に来てホテルをとりました。
 夕食は、ちゃんぽんの大、キムチ、生中。
 #本日の距離32km(+1.4km) 万歩計は32603歩(途中で落としたので狂っていると思います)。
 明日は計28kmほどを歩く予定。明日、足は大丈夫だろうか。97kgの体重分の力がかかっているからなあ。ダイエットせねば。

●ハリヨ(魚)がすむきれいな小川

・3日目 4月30日
 6時40分から歩き開始。
 心配は足の裏の圧痛。馴れて痛みが軽減するのか、それともひどくなるのか。
 歩き始めて3時間くらいは気になりません。夜の間に足裏もリフレッシュされているからか軽快。しかし、お昼を過ぎる頃には圧痛を感じるようになりました。しかし、馴れのせいか、昨日より痛みが軽くなっていると思いました。
 鳥居本宿は、和紙に柿渋で防水処理をした合羽と胃腸薬の赤玉神教丸が有名だが前者は看板が残っているだけ。赤玉神教丸の有川製薬は当時の建物のままで営業を続けています。朝もやっているようでした。買おうかと思いましたが、胃腸に問題があるわけでもないので素通りしてしまいました。
 番場宿では中山道第一の景地といわれる摺針峠から琵琶湖を眺めましたが曇り空ではっきり見えませんでした。残念。クリアなら竹生島も見えるとのこと。
 蓮華寺六波羅探題一行悲劇の地です。1333年、5月7日の京都合戦に敗れた六波羅探題一行は番場の宿に着いたときに、南朝軍の重囲に陥り、戦うが再び敗れ、北條仲時以下430余名は戦死あるいは自刃。それに深く同乗した時の第三代住職は過去帳に収め供養の墓碑を建てました。墓碑が並んでいるところで大阪から車で来ていた2人組に話しかけられました。車で歴史的な遺跡を見て回っているとのこと。お二人と一緒に住職による寺の説明を聞きました。幸いにも宝物殿を開けていただき説明を受けました。
 戯曲「瞼の母」の番場忠太郎の話もおもしろかったです。作者長谷川伸は、自分の不幸な生い立ちを投影して戯曲を書いたが、忠太郎を番場出身に設定しました。それは若いときに中山道を歩いていたときに蓮華寺で住職に食事をご馳走して貰ったことがとても嬉しくてそうしたとのことです。
 時間に余裕があれば中世の山城である鎌刃城跡を見たかったです。番場宿を歩いているときに住民の人が「中山道を歩いているんですね。それならこれを参考にどうぞ」と番場宿のイラスト案内図と鎌刃城跡のパンフレットをくださったのでした。 
 醒井宿に流れる千蔵川にはハリヨという魚とバイカモという水生植物が見られます。
 川の水は本当にきれいです。ハリヨが生息できるのは20℃以下の冷水で、かつ湧水であることです。バイカモも同様です。
 他にも醒井宿ではお葉付銀杏の木を見たりしました。
 柏原宿では柏原歴史館に入りました。福助人形が印象に残りました。広重の画に伊吹堂亀屋(お灸の艾[もぐさ]を販売)の大きな福助人形があるとのこと。いま亀屋にあるのはその二代目。しかし、亀屋は本日休業で見られませんでした。
 なお、福助はもともと亀屋の番頭でその働きぶりで商売繁盛したのでその人形が全国に広まったとのこと。
 梓川の水もきれいでした。
 今須宿を経て関ヶ原宿へ。17時頃に到着。
 宿は創業永長元年の桝屋。8畳の和室。
 まず風呂に入りました。夕食は豚肉、野菜の鍋。ビールを頼みました。うーん、お腹いっぱい。鍋は中味は2人分はあったぞ。一泊+夕食で\7500。安いです。
 今回の徒歩旅行はダイエットもねらいにしているのですが、出発前よりベルトがきつくなっている気がします。(^_^;)
 #本日の距離28km(+2kmくらい) 38629歩

●31km歩いて、岐阜で友人に労われる

・4日目 5月1日
 6時20分から歩き開始。
 20分くらい歩くと旧道と国道とがぶつかったあたりに桃配山の表示。その史実の解説板はやさしい表現で読ませます。
 約1300年前、大海人皇子が野営地に入ったときの差し入れが山桃。「この桃を軍団兵士に1個ずつ配りたい。戦場における魔除けの桃だ。」桃を押し頂いた数万の将兵の士気は高まり連戦連勝。それにあやかって徳川家康は900年の後、ここに陣をしいたという家康初陣地なのです。
 7時15分に垂井一里塚に到着。ガイドブックには山桜と松の木とあるが、現在は山桜は木株に。横の日守の茶所の縁側で休みました。
 垂井宿では古い家の「大衆食堂」を見つけました。未だ7時40分なので無理ですが、昼時ならこういうところで食事をしたかったです。
 南宮大社大鳥居をくぐり、垂井の泉を見学。大ケヤキの下から大量の清水が湧いています。
 赤坂宿は石灰岩の産地である金生山に隣接します。石灰の会社が目立ちます。又立派なお屋敷が石灰の会社社長宅だったりします。
 本陣は公園になっていました。ここでしばし休憩。
 赤坂港(杭瀬川の河港として栄えました)の川燈台を見てから赤坂宿を離れ美江寺宿を目指します。
 朝食は牛乳と朝フルーツジュース各200mL。
 岐阜経済大の近くを通り、輪中堤にぶつかったので、つい石垣にかかった鉄梯子を登ってしまいました。しかし、堤が大きな道路で分断されているので道路の向こう側に渡りたいのですが道路のまん中にガードレールがずっとあって渡れません。仕方がないので遠回り。
 ガイドブックの地形図とコンパスを合わせては方角を違えないように歩きます。
 やっと旧中山道に出ましたが寄ろうと思った小簾紅園(和宮記念公園)を見過ごしてしまいました。
 平野井川を渡る手前で休憩しながら昼食。今回はカロリーメート。
 赤坂へ向かう徒歩旅行者と出会い、少し話をしました。
 揖斐川を渡り、瑞穂市巣南支所手前の整備中の公園で休憩。
 前の前にイカルチドリ
 道向かいの中学校のお昼のチャイムが鳴り、生徒たちの声が聞こえます。
 13時頃、17条河川公園を回って美江寺宿へ。
 気温が高く日射もきつく、歩きにも疲れが出てきました。
 河渡宿を抜けて長良川の土手に出たときにひっくり返って休憩。
 さあ、後は加納宿
 どうも道を間違えてしまい、東海道本線をくぐったところがずれているらしい。
 やっとそれらしい道に出て「旧中山道はどこでしょうか?」と新聞配達の人に聞きますと「ここですよ」という返事。
 岐阜駅南口のほうなので近くにホテルがないか探しながら駅に向かいました。
 ありました!一泊3900円の格安ホテル。
 17時頃にホテルに入り、シャワーを浴びると共に下着、シャツの洗濯。
 18時20分頃から生源寺さん(京都橘大学)と「炙り屋」で21時半頃まで。
 ホテルの玄関近くで無線ランの電波が拾えました。
 部屋に戻ると疲れとアルコールのせいでバタンキュー。
 *距離31km 34586歩(?)

●「うだつが上がる」の「うだつ」とは

・5日目 5月2日
 先ず昨日生源寺さんからいただいた和菓子を3個頬張りました。朝食のつもり。
 6時40分頃にホテルを出ました。
 夜の間に雨が降った形跡有り。
 江戸初期創業の旧旅籠二文字屋の前を通るも「本日は休業」の看板。ここは皇女和宮に出した本膳を再現して、求めに応じて出してくれるそうです。
 雨が降り始め、次第にどしゃぶりに。
 雨具を着て、ザックをおおい、傘もさしました。
 これから鵜沼宿までの長い道中があります。17km。
 その中程にある新加納立場の標識があるところでしばし休憩。ここまで歩き始めて約2時間。雨具を脱ぎ、和菓子の残りを食べました。
 9:16に通過した新境川堤は桜並木が4km続きます。桜名所百選の一つ。桜の季節ならすごいだろうなと思いました。
 各務原市の市民公園は何種類もの大きな木(岐阜大からの移植)があり、とても雰囲気のよい公園でした。休憩してトイレにも。
 和菓子は炭水化物ばかりなのでコンビニでチキン唐揚げと乳酸菌飲料を買い、食べながら歩きました。
 お昼過ぎに鵜沼宿を過ぎると、うとう坂に入ります。
 坂道をどんどん登っていくと合戸池に出ます。ここでは旧中山道を通るよりは「うぬまの森」を楽しもうと、その池のところにある登り口に入りました。
 初めての土の道。登山道という感じです。こういう道では登りでも元気になります。
 途中途中眼下に木曽川犬山城が見えます。結局一番高い展望台のある場所まで行き、そこから降りていきました。
 旧中山道から行くよりは木曽川の少し下流に出ます。木曽川とその周辺の風景は絶景です。
 旧中山道からだと食事どころ「ゆらぎ」に出ます。そこまで行き、コーヒーとケーキでしばし休憩。
 岩屋観音にも登りました。登っている途中に千葉大学時代の友人(千葉県の中学校の校長)から「昨年いっておいた講師のことだけど日が決定」との電話。彼の地区の中学校理科研究会の事務局にぼくのファンがいて是非呼びたいとのことだったです。
 木曽川の土手につくられた「日本ライン ロマンチック街道」を歩いて太田宿へ。
 ロマンチック街道を歩きながらいろいろ鼻歌を歌っていました。
 某雑誌の編集者から携帯に。
 雑誌でぼくの本を紹介してくれるということでいろいろ人を紹介したりしました。
 ぼくは「うだつ」(卯建)というい葉の意味を知りませんでした。「うだつ」とは隣家との境界に取り付けられた土造りの防火壁のこと。大変高価なので、「うだつが上がる」ということは富の象徴だったのですね。太田宿では美濃型うだつのある林家(*写真)が脇本陣でした。全国一の脇本陣とのことです。
 化石林公園から太田橋に登りました。昔は舟渡だったのが太田橋ができて舟渡は終わったようです。激流で中山道三大難所の一つでした。
 しかし、今も徒歩旅行者にとっては難所です。太田橋には歩道がなく車がびゅんびゅん行き交うところを端っこに小さくなりながら渡っていくのです。昨年の旧東海道だと天竜川もそうだったな。(天竜川よりも橋がずっと短いですが。)
 「今渡公民館南」で本日は終わり。名鉄日本ライン今渡駅から今夜のホテルのある隣の新可児駅に。
 連れ合いと合流しておいしい料理とワインを満喫しました。食べ過ぎたかな。
 #本日の距離 30km 32415歩

●連れ合いと歩く

・6日目 5月3日
 「今渡公民館南」を8時40分にスタート。今日は連れ合いもいるし距離も短いのでゆっくり。
 伏見宿は「目立たぬままに過ぎゆく」というフレーズを大黒屋にあった松山達彦『ぶらり中山道』(ナカニシヤ)にあったとおり、わからんうちに過ぎていったようです。
 基本的にR21を歩きます。割と大きな川(?)にかかる橋を渡ったところで休憩。オオヨシキリが枯れた芦の先端で盛んに鳴いています。
 カルガモが2羽飛んできて草むらの中を歩いています。
 途中でコロッケとミンチカツを食べながら歩きました。
 どの辺を歩いているかわからなくなっていましたが旧中山道に何とか合流しました。
 「鬼の首塚」で休憩。(11時16分〜)
 すぐに御嵩の宿です。脇本陣跡の「中山道みたけ館」を見学。(12時〜)
 ここはいろいろと工夫して企画展をやっているようです。その一つ「江戸の旅の用心集」はなかなかでした。そのパンフレットを購入。妥当な対処法が多いが「土踏まずがはれて痛いとき」は「ミミズを泥付きのまますりつぶして塗るとよい」などは眉唾と思いました。
 八百屋で甘夏を購入。
 国道に出て昼食。(12時40分〜)生姜焼き定食+コーヒー。
 さらに国道(=旧中山道)を進み和泉式部供養塔で休憩。
 すぐに「牛の鼻かけ坂」の登り。トイレ有り。そこにマリア観音の標識があるので行ってみました(*写真はマリア観音像と連れ合い)。
 この辺はかつて隠れキリシタンの集落があったようでその出土品が「中山道みたけ館」に展示してありました。
 とくに津橋からは道は東海自然歩道と重なり、気持ちのよいハイキングコースです。
 今日の宿泊の細久手宿の大黒屋には17時頃到着。
 泊まりの人はぼくらの他には夫婦2人組、男1、女1。
 大井宿から歩いてきた人たちです。東海道中山道の徒歩旅行の話に花が咲きました。 料理は大変おいしかったです。
 女1人の人は8月に文芸社から中山道の本を3冊出すといっていました。
 「片割れと書いたんだけど片割れがなくなっちゃったんです。その本の写真で補うところを撮りに来ているんです」と言っていました。同じく東海道の本を文芸社から出して完売しましたと言っていました。是非購入しようと思います。
 大黒屋の部屋にあった刀を背負いながら歩き通した70歳の人の自費出版本は全部読み切ってしまいました。
 #21km 23213歩(?)

●足に大きな水泡が

・7日目 5月4日
 7時に朝食。「旅館で出た朝食で一番おいしかった」とは連れ合いの弁。
 8時少し前に大黒屋を出発。30分ほどで着いた弁天池ではカエルが美しい声で鳴いていました。
 けたたましい鶏の鳴き声が聞こえてきます。近くに大きな鶏舎があるようです。
 すぐに日本一長いと言われる琵琶峠の石畳の道。
 八瀬沢の一里塚跡があります。この細久手−大井の間は一里塚が復元されていて休憩のきっかけになりました。
 皇女和宮の歌碑もあり、彼女はどんな一生を送ったのか興味が湧きました。
 カラ類やホオジロの鳴き声を聞きながら進みます。
 大湫宿では五平餅を焼いている休憩所があり、そこで五平餅を食べながら休憩。(10時〜)
 目の前には本陣があった大湫小学校。今年の4月から廃校になったとのこと。
 ここからは十三峠と言われる上り下りの続く道。
 地蔵坂から権現山一里塚の周りはゴルフ場。興ざめ。
 深萱立場の標識があるところで大黒屋さんのおにぎりを頬張りました。(12時20分〜) 疲れが出てきたか膝のこわばり感が強くなってきました。
 また、右足に違和感を感じ、靴下を脱いでみると指に大きな水泡ができています。まめもできそうな感じでした。カットバンを張りました。
 大井宿には15時頃到着。
 喫茶店に入り、ぼくは「コーヒー+洋梨のタルトケーキ」を注文。ゆっくりしてから次の目的地である中津川宿へ向けて歩き出しました。
 「ここなら無線ランの電波を拾えるかも」とノートPCを出しました。ネットに接続できました。調べたかったのは中津川から馬籠へのバスの時刻。わかったのは休日には馬籠に行く最終のバスは16時55分発ということでした。そのときの時刻は16時少し前。大井−中津川の間は10km。どう急いでも3時間近くはかかります。しかも膝の調子がよろしくないのです。
 もう恵那駅から中津川駅に電車で行き、それからバスで馬籠へと行かないとタクシー利用になってしまいます。
 というわけで今日は細久手→大湫→大井で歩くのを止めました。
 バスで17時24分に馬籠につき白木屋にチェックイン。夕食でまたもやお腹いっぱい。連れ合いの残した分も食べてしまいました。ビールも2人で3本(大部分はぼく)。明日からダイエットに励むことにします。
 長時間歩いていると、どうも体重がオーバーしているから膝や足に大きな負荷がかかるということを実感します。風呂にはいるとお腹のところをつまんでみます。するとお腹の肉はかなりの分厚さです。
 昨日大黒屋でヘルスメーターに乗ってみました。徒歩旅行出発時よりも3kgほど減っていました。しかし、今日の夕食で減ったのは2kgになってしまっているだろうなあ。
 #計20km(距離は短くても十三峠は1日使う価値有り)

●右膝を少し痛める

・8日目 5月5日
 馬籠の白木屋から中津川駅へのバス、中津川駅から恵那駅までは連れ合いと一緒。連れ合いは名古屋から東京に行き、東京のマンションの掃除をしてから野田自宅に帰るとのこと。
 大井宿(恵那)を9:40に出発。中津川宿に向かいます。昨日の十三峠の上り下りで右膝を少し痛めたようです。こわばり感と少々の痛みがあります。大丈夫か!
 子どもの日ということもあり恵那川には鯉のぼりが泳いでいます。
 甚平坂を上り、茄子川茶屋本陣には10:30。ここは中津川宿と大井宿の中間にあたります。
 人は死ぬと生きていたときの行いによって6つの道のうち一つを行かされる、それを救うという六地蔵(石碑の6面に地蔵のレリーフ)に11:50。
 少し行くと国道沿いに「餃子の王将」の看板。なんかチャーハンと餃子が食べたくなりました。スタミナ焼き肉チャーハンセット(餃子とミニラーメン付き)を注文。
 ゆっくりします。
 上宿の一里塚跡に1:05。すぐ「こでの木坂の石仏群」。ここには男女別々の頭を持ち方から足にかけては一体になっている「双頭一身道祖神」があります。
 13:30に中津川宿に入りました。うだつのある家などを見て、「往来庭」というギャラリーのようなところを通りかかると「見ていって…」と呼びかけられました。「中津川 伝統芸能 歌舞伎・舞」の写真を展示していました。舞っているのは素人の娘さんたちですが、その日本美をとらえています。その主の高木さんと、もう一人が歯医者さんと話。 となりの元ナショナルの電気店に連れて行ってもらいました。そこには素晴らしい山の写真が展示してありました。お茶をご馳走になりました。
 歌舞伎・舞や山の写真を絵はがきにしたものをいただきました。
 歯医者さんに「是非めおと(女夫)岩を見ていって…」と言われて男と女のシンボルそっくりの大きな自然石を見に行きました。歯医者さんらライオンズクラブでこれら男の根石と女の陰石を買い取って寄附したそうです。
 また14:50に「往来庭」に戻り、次は落合宿を目指します。
 中津川高校あたりの坂を上ります。眼下に中津川の市内が一望できます。
 落合宿には16:20頃。
 落合の石畳に5時頃。膝は痛いのですが上りは何とかなります。
 ナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)の杜も通ります。
 「是より北木曽路・藤村老人」の石碑を17:18に通過。
 この辺りから馬籠の中心までいくつか民宿があります。こういうところに泊まるのもよかったかな、と思いました。
 もうすぐ白木屋というところで恵那山がきれいに見えました。
 18時前に白木屋に入りました。
 右膝が痛いので階段を手すりにつかまりながら上り下りです。(^_^;)
 #18.5km(+1km)

島崎藤村に興味をもつ

・9日目 5月6日
 白木屋を8時半頃出ました。藤村記念館が8時半から開いており1時間ほど見学。きちんと藤村の小説を読んだことがないのですが読もうという気持ちになりました。
 右膝は痛いままです。
 栗きんとんソフトを食べました。そんなにおいしくなかったな。
 途中で杖になる枝を拾い、膝をかばいながら歩きました。
 階段状の下りが辛いです。
 10:10十返舎一九歌碑。「渋皮のむけし女は見えねども 栗のこはめしここの名物」
 馬籠峠の頂上に10:30。
 一石栃立場茶屋は茶屋の住人が離村したため「妻籠を愛する会」が管理。ちょうど枝垂れ桜が満開でした。10:44。休憩。
 旧中山道は気持ちのよい道です。車できた人も馬籠−妻籠の間は歩くとよいですね。お薦め。
 樹齢300年のサワラ。11時。
 白木屋で昨夜サワラという部屋に泊まりました。ヒノキの仲間なのだな。
 11時半頃大妻籠を通過。信州型うだつのある民家が並びます。馬宿だったので大戸をはずすと牛馬も入ります。
 12時頃妻籠の駐車場(入り口)に到着。休憩。
 昼食は山菜の天ぷらそば+ビール。この徒歩旅行ではじめて昼食にビールを飲んでしまいました。飲むと歩く気が失せますからね。13時過ぎまでゆっくりできました。
 南木曾駅近くに14:30。
 無線ランの電波をつかまえることができたのでメールチェックなど。
 三留野宿近くの民宿を検索。
 民宿の一つに電話すると駄目。そうだよなあ、土曜日だし。
 木曽川の流れを左下に見ながら歩きます。
 もう一つ民宿に電話。「いいですよ」の返事。それが柿其峡の「柿其温泉 いち川」0264 (57)2655。
 それが16時頃。なんか右膝の調子がよくなったような。
 さらに30分ほど歩くと、その「いち川」の看板。「山の季節料理と湯のぬくもり 柿其温泉 やきやまの湯 渓谷の宿 いち川 次の信号左折して4km」。
 信号の辺りの木曽川花崗岩の方状節理が見られ写真で見た寝覚の床のよう。柿其は別称南寝覚ということです。
 16:42信号を左折。それからの4kmが長かったなあ。
 途中でパトカーに呼び止められました。「登山ですか」「いえ、民宿いち川に泊まりなんです」「あー、上の方にある宿だな。熊が出るので気をつけてください」「未だかなりありますか」「ありますよ」
 着いたのが18時。部屋に案内されたときに階段は手すりにつかまりながらでした。
 温泉に入りました。目の前の新緑を見ながらです。
 夕食。イワナの炭火焼きに山菜オンパレード。
 同宿のHさんは尼崎に勤めている公務員。京都の学生時代、御嶽山の山小屋のバイトをやっていたので、この時期はバイクで白馬などを回っているとのこと。昨年、「いち川」に泊まり、杣酒(生きたままの酵母どぶろく)がよかったので又来たとのこと。
 寝る前に温泉。温泉には計3回入りました。
 21時頃には就寝。
 #22km

●番外編 柿其渓谷

・5月7日
 外は雨。嬉しかったのは階段を手すりにつかまらずに上り下りできたこと。未だ本調子ではないですが温泉に3回入ってよく寝たことでかなり回復したようです。
 中山道徒歩旅行9日目を書いているうちに9時50分となり、お会計をしてチェックアウト。雨具を着て傘もさします。
 この日は中山道から離れて柿其渓谷へ行ってみることに。
 女将さんが「柿其渓谷は“男”ですよ。阿寺渓谷は“女”。阿寺は川に沿っているけど、ここは上から下を覗き込むんです。」と言います。激しい渓谷だということなのでしょう。 恋路橋を渡り、川沿いの遊歩道を黒渕を過ぎ、木の階段がつけられたところを上っていき、さらに少し下ると牛ケ滝の見晴台があります。雨で水量が多いせいか轟音を上げて水が落下しています。
 滝を満喫してから山の中の登山道的な道を行くと、林道恋路峠線という舗装された林道に出ます。また中部北陸自然歩道という標識があり、恋路峠の避難小屋に出ます。しばし休憩。
 林道を少し歩くと「熊に注意」と野尻宿3.1kmの標識があり、自然歩道に入ります。
 また林道に出るとフォレスパ木曽。
 雨の中とはいえ、ここまで歩く人とも車とも会いませんでした。
 阿寺川と木曽川の合流地点に11:40着。阿寺川を上っていくと阿寺渓谷がありますが、野尻宿のほうへ向かいます。
 木曽川は広々としてゆったり流れています。
 野尻宿に出て、食堂を探すも見あたりません。
 野尻駅に行くとほんの少し前に中津川行きが出ていました。後は2時間後。
 もう一度食堂を探そうと歩きますがないようです。しょうがない、何か食べ物を買って駅で食べようとスーパーのような店に入りました。牛乳や野菜ジュースを買い、冷蔵庫を見ると杣酒があるではないですか。1升2200円。
 駅で雨具を広げて乾かしながら杣酒を開けます。逆さにして濁りを混ぜると蓋から泡が出ます。酵母が生きているから二酸化炭素が出ているんです。カロリーメートを肴にちびりちびり。うめえ。
 野尻駅から電車で京都に戻りました。次からは京都から何回かに分けて歩くことになります。

●杣酒の醸造元の西尾酒造に寄る

・10日目 5月12日
 桃山御陵前5:59発に乗れば野尻駅に8:25につきます。これで行くことにしました。
 野尻駅を出て、前回杣酒を入手したスーパー前を通りましたが未だ空いていませんでした。
 第10中山道踏切(弓矢踏切)を渡り、弓矢集落に入っていきます。ここには大桑村役場や保育園があります。途中で保母さんたちが園児たちをお散歩しているのに出会いました。保母さんから「こんにちは」と挨拶されました。
 ここから見える平野は、蛇行切断でできた三日月型の珍しい平野とのことですが、よくわかりませんでした。
 川には「子ども専用釣り場」の旗がありました。地域の子どものために稚魚を放流したりしているのかな。
 木曽の清水寺と言われる岩出観音堂を見ながら伊奈川橋を渡ります。9:47。
 杣酒の西尾酒造のロゴは英泉の伊奈川橋遠景をデザインしています。
 須原宿に近づいていくと水舟(山からの湧き水をくり抜いた大木に引く)が見られます。
 須原宿脇本陣は杣酒の醸造元の西尾酒造。店を覗き込んでいたら「どうぞ入ってみてください」と言われました。
 「柿其渓谷の民宿で杣酒を飲んで、気に入ったので、野尻宿で買って飲みながら歩いたんですよ」と言ったら、「民宿はいち川さんでしょ。そこで出しているのは酒屋さんに売っているのではなく限定の本醸造のほうです」とのことでいくつか利き酒をして本醸造を3升クール宅急便で京都に送ってもらうようにしました。
 5合びんも買って、それは道中に楽しむことに。
 ほぼ19号を(ところどころ旧道を)、木曽川を左に見ながら歩きます。
 昼食はうどん屋さん。特上天ぷら付き味噌煮込みうどんを注文。ゆっくりします。
 小野の滝に14時頃着。そこでしばし休憩。カケスが遊んでいました。
 昨年の東海道徒歩旅行のときには歩くのを止めた夜しかアルコールをとらなかったのがつい5号びんに口をつけてしまいます。歩くのが億劫になるんですけどねえ。
 小野の滝から少し行ったところで踏切を渡り19号線からはずれます。
 上松中学校の近くで14時40分頃休憩。無線ランの電波を拾ってメールチェック。
 15時40分頃上松宿の上町(かんまち)通過。
 16時頃、国道19号線で歩道橋が無くカーブしている場所に。
 見ていると大型車の後部がガードレールすれすれです。「これは危険!」と、どうしたらいいか悩みました。車はひっきりなしに通ります。つい探検心を起こして国道の下に降りていきました。木曽川の土手の斜面にうったコンクリート柱で国道が支えられています。その斜面に降りたのです。すべったら木曽川に転落です。這うようにして進みましたら、国道に出るアルミ製の梯子がかけてありました。ふー。そこから国道に上がりました。 これで歩道橋がない場所をクリアするよりも車が途切れたときにカーブの部分を走ったほうが何倍か安全な気がします。
 先に行くと木曽のかけはし跡がありましたが、きっと昔の人はぼくが国道下を進むような恐怖感をもって進んだのだろうな。
 18時頃木曽福島の駅に。
 駅前にある旅館に宿泊。急に頼んだので夕食無し。
 入浴したり休んでから夕食をとろうと外に出ても駅前にも市街にも食堂が開いていません。しょうがないのでスーパーでにぎり寿司とワカサギ煮を買い、5号びんの酒の残りで夕食。5号びんはすっかり空になりました。
 メールをチェックすると、福井県高教組から学力についての講演依頼や学研から科学創造研究所のことで相談したことがあるというものが入っていました。
 #30km

●30年近く前に見た風景

・11日目 5月13日
 外は雨。雨具を着ます。ディバッグをポリのゴミ袋で覆いました(小型用のザックカバーが見つからなかったのでゴミ袋を持ってきた)。
 6時40分宿を出ました。
 福島宿では木曽川の川端極限まで屋敷割りした崖屋造りが見られます。この風景は何十年か前、未だ公立中学校教員になって数年後のことだと思いますが見た記憶があります。30年近く前です。木曽川にかかった橋からこの崖屋造りを見たんですね。
 一緒にいたのは、当時大学院生だったと思いますが、いま、和光大の梅原さん、東京学芸大の三石さんら。木曽福島からタクシーで木曽駒ヶ岳登山口まで行き、登ったのです。そのときのぼくの格好と来たら登山の予定ではなかったので革靴にふつうの服装でした。 それでぼくは無謀にも木曽駒ヶ岳を登ったのです。
 崖屋造りを見て、わが青春に思いをはせながら雨中を歩きました。
 あの頃怖い物無しで職場の大宮市立春里中学校でも勝手なことをやっていました。若いくせに生意気な教員だったろうな。Kさんという学年主任とうまくいかずに須田さんという悠々と生きている学年主任が「うちの学年に来いよ」と引っ張ってくれました。結局、東大附属に移るまで「須田組」で過ごしました。
 仕事以外でもいろいろ悔いのいっぱいあることをやったように思います。
 教員という職業に就いたのだから一生のうちに一冊くらいは本を出せるといいなと思っていました。
 8時に手習天神で休憩。ここには立派なイチイの古木があります。
 8時半に「中山道中間点」の標識のところに。ついに本日中山道も半ばを越えることになります。
 宮ノ越宿に入ると木曽義仲という文字が目に付きます。ここは義仲が平家追討の兵を挙げた地です。
 9時45分に巴ケ淵。ここで休憩。淵の辺りで釣りをしている人がいました。
 雨の中、木曽川に迫る山々の新緑が非常にきれいです。
 こんな風景を見ながら歩くと視力も上がるのではないかな。(一時、老眼鏡が必要か、と思ったこともあったのですが、今は不要です。)
 11時頃焼き肉、ラーメンの旗に誘われるように店に入りました。
 味噌ラーメンと餃子を注文。ゆっくり休みます。
 12時25分には薮原宿に。
 ミネバリという木からつくった「お六櫛」が有名らしい。
 これからが難所、鳥居峠です。石畳のところに12:50。
 カラマツの新緑もいいでですねえ。山桜、山吹も満開でした。
 13時10分頃頂上付近の休憩所(できたばかりのログハウス風)で休んでいると7,8人の高年ハイキング組と一緒になりました。
 雨でなかったらもっとたくさんのハイキング組とすれ違ったりしただろうな。
 割と太い栃の木群を見ながら降りに入ります。
 膝のことがあるから小股で猫のように歩きます。
 14:36には「国選定重要伝統的建造物群保存地区 長野県楢川村奈良井」の解説版がある場所に出ました。国選定重要伝統的建造物群保存地区というのは、中山道では確かここと妻籠宿だけだな。
 パックになってタラの芽とコシアブラが売っていたので、タラの芽1箱とコシアブラ2箱を購入。
 奈良井駅に15時頃着。駅に荷物を置いて、ちょっと店に入り休憩。タラの芽の天ぷら、ウドの酢味噌和えと日本酒の「木曽路」。
 夜は長野駅まで足を伸ばして理科サークルの飲み会。長野のテレビ局NBSの記者一色さんと池田さんの女性2人が両隣。何か飲み過ぎたぞ。
(大宮駅で降りて野田に向かうところが寝過ごして上野へ。乗り越しを払って柏回りで野田自宅に帰ることが出来ました。)
 #22km

●そば切り発祥の地でゆっくり昼食

・12日目 6月1日
 京都自宅を5時40分頃出ると奈良井駅に9時半頃に着きます。
 3週間弱の間隔があいての久しぶりの中山道です。
 ずんずん歩いていくと保育園か幼稚園の園児たちの一行と会いました。先生が「こんにちは!」と挨拶。「みんなも挨拶しようね」。ぼくも「こんにちは!」と何度か挨拶。
 見るからに徒歩旅行者という格好なので安心して挨拶できるなんだろうな。
 奈良井川にかかる奈良井大橋を渡る手前の辺りでした。
 道は平沢の街に入っていきます。ここは漆器の街。明日からの漆器祭りの準備に余念がないようでした。
 諏訪神社の中を通り、楢川村役場の前を通り、奈良井川に沿った道を歩いていきます。 国道の切り通しに設けられた歩道を歩いたりもしました。
 11時頃、樹齢千年のトチの大樹をパチリ。
 歩道橋を降りると復元された贄川番所。
 12:20に木曽路道標。「木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂ニ至ル…」
 日出塩駅近くの食堂(ソバ屋)で昼食をと思って覗くが「今日は貸し切りなんですよ」と。うーん、腹減っているのになあ。
 それから次の本山宿まで食堂は無し。でも、本山宿はそば切り発祥の地として有名らしい。13:20、緑色に白地の「そば切り発祥の地 中山道本山宿」の旗が見えてきました。
 早速入って、ついビールも頼んでしまいました。おつまみは魚の甘露煮。
 そばも食べて、ここでゆっくりしてしまいました。
 洗馬宿では同士と会いました。「東京日本橋から2年かけて今ここだよ」って。ぼくより少し年上だと思いますが、明るく軽快に歩いていました。ぼくは足裏が少し痛くなり、またビールが効いてきて元気がなかったかな。
 平出遺跡の近くを通ったので、縄文時代の竪穴式住居を覗き込んだりしました。
 ついでに平出博物館にも足を伸ばして見学。
 その近くに鍾乳洞から湧くという平出の泉がありました。「この色はコロイド粒子の散乱だろうな」などと思いました。
 中山道からはずれて近道を通って塩尻駅へ。17:30にはホテルに入り、汗を流しました。(18時少し過ぎから懇親会。)
 #25.5km

●夜に和田峠を越える山道を歩くはめに

・13日目その1 6月3日
 前日は、長野県総合教育センターの講師でした。それも無事に終わり、夜、ホテル(中村屋)で連れ合いと合流。一緒に塩尻峠と和田峠を越える予定です。
 6時半にホテルスタート。コンビニに寄って牛乳や野菜ジュースやいなり寿司などを購入。
 7時頃には旧堀ノ内村の集落に入り、その旧堀ノ内村の名主を務めた豪農の堀内住宅を見学。妻入りの本棟造り。
 長野自動車道の陸橋を渡ると塩尻峠への緩やかな登り道です。庭に立派な山藤の花が咲いている民家のおばさんが「歩きですか。頑張ってね」と。「この藤、すごいね」という会話が聞こえたのでしょう。
 「美しい娘が夜ごと好きな岡谷の男のもとに通った」という伝承がある地蔵を過ぎ、茶屋本陣を過ぎ、8:50には塩尻峠展望台。眼下に諏訪湖が見えます。展望がよいと富士山も見えるとのこと。そこで朝食。
 峠を下っていきます。9:30に旧中山道の大石。9:35に金明水。水をごくごく飲みました。コンビニに寄り食べ物・飲み物を少し購入。魁塚で休憩。
 下諏訪温泉入り口近くで手打ちそばで昼食。〜11:50。
 中山道を離れて「万治の石仏」を見に行きました。諏訪大社春宮の西側を流れる砥川の対岸の田んぼの中にあります。石仏の手前に岡本太郎の石碑があり、「こんなおもしろいものを見たことがない」と。新田次郎イースター島のモアイ像を連想したとのこと。
 今日の失敗その1はここから始まりました。
 連れ合いは岡本太郎の石碑や石仏を見たときから何か起こると胸騒ぎがしたそうですが。
 地図を見ると、もう少し砥川の土手を上流に歩き、橋があるところで対岸に渡り、中山道に合流することが可能のようでした。つい未知のほうに歩いてしまうのでした。
 しかし、歩ける土手が行き止まりになってしまいました。ちょうどコンクリート堤になっており、そこを流れる水は浅いので何とか歩いて渡れると思いました。ぼくは渡ったのですが連れ合いは足がすくんで渡ってきません。(後で聞くに浅い川でも溺れそうになったことがあってコンリート堤で足を滑らせるのを怖がっていたのでした。)
 手をさしのべるなどして渡り、中山道へ。
 しかし、ぼくはズボンのポケットに入れた本を川に落としてしまったのです。
 そのガイドブックが一番地図がしっかりしていました。迷いそうなところは拡大図があったのです。

・13日目その2 6月3日
 諏訪大社御柱祭(6年に一度)の一部として、諏訪大社の社殿を守る「御柱」の巨木に氏子が乗って山を滑り降りるのが「木落とし」です。その御柱が置かれる注連掛の広場や木落としの坂までは順調でした。
 ここで失敗その2。
 木落としの坂から国道に下るところを東に延びる道へと行ってしまったのです。萩倉という地区です。静かでとてもよいところでした。気がついて戻りましたが2時間のロスをしてしまいました。今日はこれから和田峠を越えなければならないのです。ロスは許されないことでした。
 戻って国道を上っていくと、和田峠の山道への入り口に着きました。
 国道が大きく曲がり、林道ゲートがあるところです。
 そこで焦っているぼくは三度目の失敗をしました。
 中山道は林道だと思って、林道ゲートを横からくぐり、どんどん進んだのです。
 しかし、いつまでも厳しい登り道になりません。国道とときには交差するはずがそんなこともありません。戻ることにしました。1時間半のロスです。カモシカやシカがいてよい道だったのですが。18時過ぎになっていました。
 国道に平行して笹藪で覆われた狭い道が中山道でした。
 薄暗い中を登っていきます。未だ足もとが見えるので、狭い山道でも何とか急いで歩けました。連れ合いはむすっとしています。ぼくのこれまでの判断ミスを怒っているようです。連れ合いは、「写真を撮るよ」と言っても顔を上げません。
 最初の国道との交差を過ぎると西餅屋跡がありました。次の交差あたりから登りがきつくなります。汗が噴き出ます。
 峠(和田古峠)に着いたのが19:15。
 連れ合いが「難所って言ってもたいしたことないじゃない」と言います。昨年一緒に縦走した飯豊連峰と比べれば軽いハイキングコースということです。
 真っ暗になりました。ヘッドランプを出します。
 そこから山道を降りたのですが、思い出したのは、昨年の口之永良部島での16時から登っての遭難でした。
 ヘッドランプで照らしても、岩がごろごろしている山道は歩きづらかったです。
 ビーナスラインを何度か横切り、ときには石畳や橋がある山道を歩いて行きます。
 「もう、次に国道と交差したところで国道を歩こう」
 しかし、なかなか国道が出てきません。シカの警戒音らしき鳴き声が聞こえます。
 「あなたは無鉄砲過ぎる!」と連れ合いがむすっとしています。
 やっと前に車のランプの光が見える場所に。そこで道ばたにホタルの光を見つけました。連れ合いは大喜び。小さなウジ虫みたいなもの。マドホタルの幼虫でしょう。
 国道の接待茶屋のあるところに出ました。20:40。
 狭い国道です。飛ばしているトラックが時々通ります。有料道路代をけちっているのでしょう。
 トラックが国道の曲線部分を回るのを見ていると、国道を歩く気が起きません。トラックの後部に引っかけられる可能性が強いです。
 宿に電話して迎えに来て貰うことにしようと思いましたが話し中でつながりません。
 104にタクシー会社の番号を聞こうとして携帯の電池が切れそうになっているのでそれも駄目でした。
 宿に着くのが遅れるという電話をしたときに「迎えに行きましょうか」というのを「いや、何とか歩いていきます」と答えてしまっていましたが、迎えに来て貰うべきでした。 たまに通る車に同乗させて貰うしかないとランプを振りました。1台目は無視されました。次の車が止まってくれました。南木曽町ハローワークのマネージャーの人。小諸の自宅に帰る途中でした。「あー、助かった!」
 宿泊は和田宿中町の本亭。夕食のたしにおにぎりをつくってくれました。料金にはおにぎり代は入っていませんでした。申し訳ないです。(次の日連れ合いは野田自宅に帰り、ぼくは京都に帰りました、)

和田峠のリベンジ

・14日目 7月14日
 早朝京都自宅を出て下諏訪に向かいました。連れ合いも野田自宅から下諏訪に。
 この前は夜中に和田峠を越えたので、今回は真っ昼間に再度チャレンジです。
 林道ゲートのある登り口(つい林道のほうに行ってしまうよな。林道に行かずにガードレールに沿った左側の草を踏みしめたような細い道のほうに)までタクシーで行きました。
 近くの国道を走る車の音が気になりますが、道は緑一杯の林の中です。山道で歩いていて気持ちがいいです。
 1時間も歩くと峠です。
 前回は薄暗がりの中登って行ったのですが、峠では真っ暗になっていました。
 今回は11時頃に着き、ゆっくりお弁当を食べました。
 後は和田宿までずっと下りです。
 何回かビーナスラインを横切りながら山の中を道を歩きます。
 東餅屋で、ビール。
 黒曜石(岩石学的には黒曜岩)やザクロ石を売っていました。連れ合いが600円でザクロ石を購入。
 途中、梅、桑の実、グミ、木イチゴを食べました。
 午後4時までに宿に着かないと黒曜石石器資料館に入れないので急ぎます。
 着いたのは10分前。黒曜石石器資料館と歴史の道資料館かわち屋を見学。後者は係の人が詳しく説明してくれました。
 また本亭旅館に宿泊。

・15日目 7月15日
 岩村田宿(佐久の中心)を目指します。8時少し前にスタート。しかし、梅雨前線の影響で雨。雨の中、長久保宿を過ぎ、笠取峠へ。
 この辺りで連れ合いが「帰る!」と言い始めました。それで連れ合いを置いて歩いていると携帯で「次のバスまで時間があり過ぎるからやっぱり行く」と。
 うまく出会えないで戻ったりして1時間ほどロス。
 笠取峠の峠の茶屋で昼食をとろうと思っていましたが未だ早いためか(11:30)開いていません。うーん、この後どこで昼食がとれるか心配に。
 笠取峠松並木の復元金明水のところで雨宿り。食べるのは旅館の食事の残り物のチーズ。
 芦田宿を過ぎても食事場所はなし。
 白壁の土蔵が続く茂田井で歩いている人に聞くと、先の望月宿まで行かないとレストランはないとのこと。茂田井を抜けると、やっとラーメン屋が見つかりました。お昼は午後2時まで。その10分前でした。キムチラーメンと日本酒(冷酒)。
 八幡宿と過ぎていくが、雨の中だと付近の風景を楽しむ余裕がありません。
 連れ合いが疲れてきて不機嫌に。しょうがないので本日は千曲川を越えて塩名田宿で終わりに。17時、佐久平駅までバスで行き、宿泊。

・16日目 7月16日
 連れ合いは野田自宅に帰り、ぼくだけ軽井沢を目指します。佐久平を7時40分発のバスで塩名田まで戻りました。
 岩村田宿へは1時間ほど。昨日一人だったら岩村田宿まで来ていたことでしょう。
 小田井宿は江戸時代からの建物がよく残っていました。
 御代田辺りで昼食。手打ちそばに煮鯖と生ビール。
 しかし、そこから追分宿に行く途中で道を間違えました。雨の中なので地図の確認を怠ったからでした。
 かなり遠回りして追分宿に。雨でなければ浅間山を望めたであろうに。
 沓掛宿(中軽井沢)あたりから別荘地の雰囲気が。
 軽井沢宿の六辻まで行き、そこから軽井沢駅へ。いま、軽井沢の別荘地は値上がりしているとのこと。団塊の世代が自然が豊かなところで、都会から近いところということで軽井沢や熱海の別荘地を購入しているとのこと。

・17、18日目 7月23,24日
軽井沢から碓氷峠を下りて安中の磯部温泉近くまで歩いて宿泊。
 碓氷峠は長いだらだらとした下りで膝をやられないように気をつけながら。
 碓氷峠は、信濃川水系利根川水系とを分ける中央分水嶺で、峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れます。また、安政遠足(あんせいとおあし)侍マラソンの峠コースにもなっています。何人かマラソンの練習をしている人たちがいました。
 24日に、磯部温泉近くから高崎まで歩いて野田自宅に帰りました。

●国道歩きはおもしろい本を読みながら

・19日目 12月27日
 お昼頃、野田自宅を出て高崎線高崎駅へ。歩き始めたのは14時半。
 国道歩きはつまらないので、途中で古本屋により本を2冊購入。そのうちのシェルパ斉籐『213万歩の旅』小学館 1992.8 という東海自然歩道踏破の本を読みながら歩きました。若き日の(今も若いけど)九里さん(中央大学)がたびたび出てきます。以前、一緒に仕事をしたことがある三輪さんの名前も。
 市街地では本を読みながら歩きましたが、しばらくぶりに長距離を歩くせいか、腰は痛くなる、体全体はかったるい、という状況に陥りました。また休憩してから歩き出すときに足がぎくしゃくして固まった感じでした。
 「こんなんで歩けるのか!」
 しかし、思い出すのは、旧東海道徒歩旅行。始めの数日間はそうだったなと思い出しました。
 倉賀野宿を越え、新町宿に向かう道は地図を見ると烏川に平行なので烏川の土手を歩きました。こういう道は大好き。
 暗くなってきて歩いている道が中山道かどうか不安になりました。とくに烏川の伊勢崎サイクリングロードを歩いているとき。新町宿に入り中山道の道標があったときは「ああ、正しい道を歩いてきたんだ」と思いました。
 神流川にかかる神流川橋を渡り、とぼとぼと歩いていくと本庄宿に。疲れが出てきて本当にとぼとぼ歩くという感じです。
 歩いている途中で滋賀県草津市の小学校からの講師依頼が携帯にありました。
 20時半頃、本庄駅に向かう途中のホテルに宿をとりました。休憩と夕食を除いて5時間くらい歩きました。

・20日目 12月28日
 8時頃から歩き始めました。
 やはり、シェルパ斉籐『213万歩の旅』を読みながら。この日はただ歩いたっていう感じです。
 昼食は深谷で200gのステーキ定食。
 夕食は熊谷でラーメン(でっかいドンブリでした)、餃子、ビール。
 シェルパ斉籐の本は読み終わりましたので、途中の古本屋で買った小内亨『危ない健康食品』フットワーク出版社 2000.7 を読みながら。(これはその日に野田自宅に帰るまでに読み終わりました。)
 本屋にも寄りました。そこで、山本喜一さんの『早わかり化学』日本実業出版社 2006.12 などを買いました。
 17時20分頃まで歩いて、熊谷から野田自宅に帰りました。

・21日目 12月30日
 気合いを入れて早朝野田自宅を出発。熊谷駅から8時37分に歩き開始。
 この日の歩きでよかったのは、すぐに熊谷堤(久下の長土手)に出たことでした。江戸時代は中山道屈指の景勝地だったといいます。荒川の洪水を防ぐために築いた堤ですが、今は桜並木もなく右側に広大な田畑が広がっています。
 こういう道を歩いているときは本を読まず、景色を楽しみながら歩きます。
 おもしろかったのは権八延命地蔵が久下にも、堤が終わって降りるところにもあったこと。どちらが本物なのでしょう。
 市街地歩きになったら『早わかり化学』を読みながら歩きました。この日に半分程度を読みました。
 昼食は海鮮鍋焼きうどん+お寿司+ビール。
 どうも右足のかかとにひっかかりを感じます。途中で靴を脱いで靴下を脱いでみると、皮が大きく剥けて、ずれて張り付いています。靴下はリンパ液で濡れています。道理で歩きにくかったはずです。
 15時頃、北本の薬局で、ソフトカットバンを買い、貼り付けてみました。
 靴のかかとの部分が崩れていて、その凹凸にかかとが当たるのです。カットバンを貼り付けてもダメでした。足を引きずりながら歩きました。
 「これではもう歩けないよなあ」と思いながらも、年内に中山道完歩をと思っていましたから、靴屋があったら新しい靴を買おうと思っていました。
 桶川に来ると、ありました!靴屋が。16時頃のことです。
 早速、買いました。それに履き替えました。右足はぴたりと固定されて、これなら歩き続けられると思いました。(しかし、次の日、左足に大きな水泡ができるとは想像もしていませんでした。)
 夕食は上尾でとろ鯵開き御膳+アサリ酒蒸し+生中。
 上尾から大宮にはいると何かホッとします。新任から8年間大宮の中学校に勤めていましたから。
 20時頃まで歩いて帰宅。

●後2時間半で完歩できるときに敗退

・22日目 12月31日
 大宮10時15分から歩き開始。ぼくが大宮に勤めていた20数年前と大きく変貌していました。
 浦和では大宮に勤めていた当時たまに寄っていた須原屋書店に寄りました。
 そこで森川鐵朗『単位は語る 科学のツボ』技報堂出版 2006.12 等を買いました。
 前日の続きで『早わかり化学』を読みながら歩きました。
 それも読み終わると『単位は語る』を。しかし、これはなかなか手強い本でした。
 この日で日本橋まで行き、中山道完歩といきたかったのですが、右足のかかとも痛かったのですが、左足も痛くなってきていました。見ると皮は剥けていませんが、直径4cm程度の水泡ができていました。ついに両足がダメになったのです。ペースは落ちていきます。
 昼食は13時半頃に蕨で「両国カキ鍋」。いつものビールは止めました。飲んだら歩きたくなくなる気分でしたから。
 15時20分、荒川にかかる戸田橋を渡ってついに東京都に入りました。
 足を引きずりながら歩きました。
 「志村坂上」は、ぼくが中学校3年生のときによく見かけた都電の行き先でした。
 板橋宿の入り口付近に来ました。16時を過ぎていました。交番近くの公園で休んで、「これからどうしようか」と思案しました。「後2時間半くらい歩けば日本橋だ」と思いました。
 しかし、小休憩をとって立ち上がったときに足の痛みと疲れを感じました。「これ以上無理してはダメだ」と思いました。あともう少しなのに。ここで諦めるのは悔しかったです。
 17時に板橋宿を過ぎ、JR板橋駅に向かいました。
 今までに長距離を歩いてもかかとに靴が当たって皮が剥けることはありませんでした。 靴を甘く見ていたと反省。
 阿佐ヶ谷の「かんから」で20時過ぎまで飲んで野田自宅に帰りました。

中山道徒歩旅行ついに完歩!

・23日目 5月29日
 板橋駅付近14時40分から歩き始めました。巣鴨巣鴨地蔵商店街では地蔵さんに水をかけて頭を洗っていました)→東洋大学前→東京大学前(5月祭で賑わっていました)→秋葉原→神田→日本橋(17時着)。