にせものの「探究」と本当の「探究」(左巻健男)
◎若いときに書いた文章(東大教育学部の某研究冊子に掲載だったと思う)。
「探究学習」というと、いわゆる「科学の方法」「探究の過程」から行動要素を取り出し、それらをプロセススキル(測定する、グラフ化する、モデル化する、式で表すなど)に細分化して、プロセススキルの学習=「探究学習」とするものが横行している。しかも、「問題の発見 情報の収集 情報の処理 規則性の発見」あるいは「仮説の設定 その仮説から実験・観察することが可能な命題を演繹して導き出す その命題を実験・観察で確かめる 仮説の受容あるいは修正、破棄」といった定型化した流れでの学習になっている。
(この「探究学習」の背景には、現代という時代では、情報化が進むなかで、知識の交代・陳腐化が激しくなるのだから、知識を身につけるよりは、知識を処理したり獲得したりする能力こそ必要だという考えがある。)
これを私は“にせものの「探究」”と主張する。
どうしてか?
第1に、自然科学者は、このような定型にしたがって「探究」していないからである。
ブロードとウェードの著『背信の科学者たち』(牧野訳 化学同人 1988)にも「唯一の科学的方法といったものは存在しないであろう。科学者は真理に対してそれぞれ異なるアプローチの方法をもっている。あらゆる科学論文が同一の様式であるのは、普遍的な科学的方法から発しているように見えるが、実は科学論文に流布している誤った一致によるものである。もし、科学者がその実験や理論をごく自然に表現することが許されるなら、唯一の普遍的な科学的方法という神話はたちどころに消え失せてしまうであろう。」とある。
シンダーマンは、その著『成功するサイエンティスト』(山本他訳 丸善 1988)で、中学校の科学教室での勉強が始まるとき、疑いを知らぬ生徒たちに「科学の方法」なるものをもちだすのが常である、として、それを笑いとばす。
“何と美しい方法の青写真だろう。何と秩序だった真理の探究法だろう。そして何というぺてんだろう。”と。“ただ1つの明確な「科学的方法」なるものは存在しないのである。そんなものは、哲学者が科学の研究の日常について、何の現実的な裏付けももたずにでっち上げたものにすぎない。”
成功した科学者のほとんどと同様、私もこれらの意見に同意する。
最近は、新しい科学観にもとづく「科学の方法」として帰納主義的方法論を批判して仮説演繹的方法論を主張する向きもあるが、それも「哲学者のでっちあげ」の可能性を吟味しなければならない。
第2に、先に目的のところに述べた「おもしろさ」(自然の秘密を明らかにしていくことの喜び。つまり、科学する喜び)がないからである。
私の言う“にせの「探究学習」”が広く行われたとき、まず問題になったのが、理科嫌いの増加であった。定型が押しつけられて「探究」とされる学習、「わかる」とかの充実感なしの諸操作の学習がおもしろいわけがない。
第3に、自然科学の基礎的知識(事実、概念・法則)をあまりにも軽視しているからである。
自然科学は、対象である自然(=実在)の構造、法則性、歴史を探る学問である。つまりは、自然を理解しようとする学問である。
自然科学教育は、自然を探究し、理解することを目標にする。自然を探究するのに「研究の手順」とプロセススキルだけで、できるわけではない。これまでに人類が獲得してきた自然についての知識を手がかりにして、さらに未知の部分にたいして挑んでいくのである。
ここで、自然の探究への手がかりとなる自然科学の基礎的知識とは何かということが問題になろう。
私はまず、自然科学の知識には「相対的な知識」(相対的真理)と「絶対的な知識」(絶対的真理)があると考えている。知識の相対性については、誰しも同意するだろう。合理性の権化のような自然科学の知識にしても、いつ真理の地位から誤謬へと転落するかも知れないということは、科学史上の例がたくさんある。では、すべての知識が相対的かというと、私はそうではないと考える。
例えばニュートン力学である。量子力学の登場によって真理の地位から落ちたかというとそうではない。量子力学の登場によって、ニュートン力学の適用範囲が限定されたが、その範囲内ではいまでも真理である。その真理性は、幾多の実践(実験やロケットの打ち上げなど)によって保証されている。それぞれの法則には、適用範囲があり、その範囲のなかでは絶対的真理である。
自然科学の進展にしたがって、自然が階層構造をもつなど自然の構造、法則性、歴史といった、いわば自然像が鮮明になってきた。そのなかで自然を理解するのに結節点となる知識も整理されてきた。原子論、質量・エネルギー保存則、物質進化論などである。これらの知識(およびこれらの知識に連なる知識)こそ自然科学の基礎的知識として重要であると考える。