昨日(6/31)は、事務所から自転車で10分程度のところに昔の教え子が住んでいることがわかり訪問。大宮市立春里中学校教諭時代の最後のほうの教え子。
卒業アルバムを見ながら昔の思い出話に花がさいた。
旧姓Uさんは、中1、中2がぼくのクラスだった。中学校時代のUさんは、ぼくの記憶では少しふっくらしていたが今はスリム。(ぼくと反対。(^_^;))
口元に中学校時代の面影があるかな。Uさんは優秀な生徒だった。中川鶴太郎さんの『流れる固体』を読んで感想文を書いてくれたのは彼女じゃなかったかな(違うかも知れない)。
…今は無きdoblogの過去ログから…
春里中学校はぼくにとって新任から8年間を過ごした、理科教育などにはまり込んだ学校でした。そこでよくも自分勝手にいろいろやっていたものだと思います。
でも未熟な教師でした。(今も未熟ですが。)
この前も法政大学工学部で小沢君という春里の教え子に出会いました。法政の職員をしています。
ここを覗いていると東大附属の教え子もいると思います。新理科教育MLには教え子が少なくても2人は登録しています。
ベトナムに出発する前、春里でお世話になった須田和雄先生の逝去を知りました。
学年主任のKさんと合わなかったのですが「左巻さん、うちの学年に来いよ!」と引っ張ってくれました。あの頃、生意気な教師だったと思います。Kさんに迷惑をかけていたことでしょう。(01/01/2006)
卒業アルバムを見ると、副担だったY先生もいた。須田さんやYさんは今はもういない。ぼくたちはこの学年を「須田組」と言っていたが、組員はとてもすてきな先生方だった。
嬉しかったのは、「将来どうなるのだろう?」と心配していたS君がいいお父さんになってしっかり生活していることだ。しかもスリムになって…。
ダンナが野田市出身の春里中学校時代の教え子と機会を見つけて野田のおそば屋さんで会おう、というのも思い出した。
…今は無きdoblogの過去ログから…
●最近、このブログにコメントを入れてくれた矢島さんや森田さんは、ぼくが新任以来8年間勤めた大宮市立春里中学校時代の教え子だ。
この前は、非常勤で行っている法政大学工学部で小沢さんと会った。やはり春中時代の教え子だ。事務職員をしている。
18年間勤めた東大附属の教え子にも(+どうも同僚にも)ここを覗いている人たちがいる。
とくに春中時代、若く未熟な教師だったと思う。(いや、東大附属時代もそうなのだが。そして今もそうなのだが。(^^;))
「このままでは終わらないぞ」という野心家の顔ももっていたと思う。
今から思えば(その当時思っていても)言わなければよかったということも多々あったと思う。何せ素直、正直は今も変わらないかもしれない。
そのときのことを思い出すと辛い。
もうリセットできない、終わった出来事だからだ。
だから忘れるようにしている。
ごめんな、教え子たちよ。
君らは教師を乗り越えて欲しい。
CMで「先生のことが嫌いでした。だから嫌われる教師になろうと思います」というのがなかったっけ?
ぼくは嫌われてもいい、何か人生に印象を残す教師になりたかった。
友人たちに言われる。
「左巻さんは、自分が思っているよりも理科の教育界でブランドになっているよ。もっと注意深く生きなきゃダメだよ」と。
うーん、本が売れているというのはそういうことなんなんだろうな。以下略(12/10/2007)
大学院生時代にアルバイトで理科を教えていたときの教え子の一人は東大附属で養護教諭をしている。
その後、大宮市立春里中学校の8年間、東京大学教育学部附属中・高等学校の18年間で理科を教えた生徒たちがいる。
大学も京都工芸繊維大学、同志社女子大学、そして今の法政大学と3つ目。
人生設計としては(生きていれば)あと5年でフリーになって余生を過ごそうと思っている。
昨日Uさんに「また別の大学で活躍するかも」と言われたが、それは条件次第だな。