○自分の課題については、それに関連する切りぬき(スクラップ)や写真をできるだけ多く集めて、他の人に「自慢して見せる」とか「読まなくてもよいから積ん読でもよいから、関係書を集めて本箱をかざるとか、といった生活や金銭にからんだ行為をなかだちにして、勉強や研究を自分の日常生活の一部分にすることが、自分の注意を研究テーマに集中させるうえで有効だ。
中学校時代、級友から「君がこのクラスで成績が一番下だ」などとバカにされた。高校もやっとの思いで工業高校に入学し、そこでも「劣等生」ですごした私は、大学にやっと入った(千葉大学)。そこで、私は「理科教育」に自分の人生をかけようなどと考えはじめたのである。私にはできるか。科学の研究者になれる才能はない。やっと教師ならできると思えるようになった。それなら、「理科教育」をしつこくやるなら、私でも何か社会の進歩に寄与できるだろうと考えたのである。
教師になってから「左巻さんは、理科ぐらいしか趣味がないんじゃかわいそうね」などといわれても、それでおもしろがっていられるのだから、かわいそうではないんじゃないかと思ったものだった。
●いくつもの問題意識をいつももつようにしている。その問題意識にかかわっていろいろ 考えたり、情報をあさったりしている。
●ただ本を読む、論文を読むだけでは、頭に残るものが少ない。シャープな問題意識をもつことで一冊の本、一つの論文の中のある部分がスポットライトをあびたように浮かぴ上がってくるのをすくいとることができる。
●歴史をそしゃくすることで前進できる。
戦後、理科教育はいくたびか変遷した。「伝統的理科教育観」を基調としながらも、生活単元学習、「系統学習」、「探究の過程」というように。そのなかで、理科教育の目的・目標について論争があったりした。私は関心が「戦後」に限られているが、その範囲内でもさまざまな論調がみられる。今後、そのへんをしっかり勉強していきたいと思っている。
●自分なりに考えたこと、本や論文でおもしろかったことは、すぐにサークルや友人にしゃべって反応をみる。つまり、「受け売り」をするのだ。
「相手に納得してもらえるように説明できるかどうか。それから、相手もおもしろいと感じてくれるかどうか」をみるのである。忘れないうちに、自分なりにつかんだ論理で話してみることで、しっかりした認識にするのである。
●考えてみなければならないことについては、論文などをコピーして束にして持ち歩き、電車の中や学校の空き時間に読んでいる。
●時々古本屋まわりをする。
他人がもっていない本を読んでおくというのは、私のように劣等生には自信の源になるのである。しつこく本を探すというよりは、フラリと古本屋街を歩いて、問題意識にそって本をながめている。ほしい本が、あるときフイに手に入る。
●授業計画を立てるのに直接役に立つ本とともに、理科教育についての考え方が書いてある本も読む。田中実さん、真船和夫さん、板倉聖宣さん、高橋金三郎きんの本は絶対すすめる。
●自然科学の本は、専門書にとびつく前に入門書を何冊か読む。
子ども向けの科学読み物にも参考になるものが多い。やさしく書いてある本と若干むずかしい本を組み合わせて読むのである。古い本の方がわかりやすく書かれていることも多い。
●情報感度をみがく。
時代に遅れないように、教育雑誌だけではなく、さまざまな雑誌を読む。
●忘れることを恐れるな。
学習の過程で、かなりの量をこなしても、そのほとんどは忘却の彼方に去っていく。結局、しょっちゅう気楽に学習していくことで、大切なことが身についてくるのだ。安心して忘れることにしよう。
●毎日きまった時間を学習にあてる。
学習を習慣づけること。私は、だいたい、夜寝る前の約1時間を学習にあてている。だから、枕もとには、何冊もの本が重ねられている。時々片づけるが、またすぐに積み重なってしまう。眠くなるようなやや難解な本を読むことが多い。雑誌類は電車の中で読む。そんなにヒマがあるわけではないが、つぎにのべるどたん場に立たされることで、ワッと集中して読んでいるようだ。
●無理しても、研究会の報告を引き受ける。
やらなければならない場、どたん場に自分を追いこむのである。高田求さんは、つぎのようにのべている(下記の推薦図書から)。
《すすんでどたん場にわが身をおけ!あえてのっぴきならぬ局面に自分を追いこめ!
いやでも脳ミソの回転をふだんの十倍、百倍、千倍に高めざるをえないような、ふだんのひと月が一日、ふだんの一日が一時問、半時間にワッと凝縮してこざるをえないような、そんな羽目に自分を立たせよ!これが『わかる法、ものにする法』の最後の言葉です》。高田求著『学習の方法−−学びかたの弁証法』(学習の友社)
教師生活において、日々子どもとの格闘に情熱を傾けていく、それをネタに論文を書いたり本を書いたりするのはもってのほか、という考えもある。それも一つの考え方であり、教師としての生き方である。しかし、もしそこに他の教師にもやってもらいたい内容があったとしたら、広く知らせよう。それで少しは教育をよくしていこうと考えるのも一つの生き方である。
また、そこまで考えなくとも、論文・実践記録を書いてみたい、という願いをもつのもおかしなことではない。
私のように、たいした力がない者でも本の1冊や2冊を出せるのである。一生の間に、自分が書いた文がのっている本の1冊や2冊を出したいと思うのは、教師という“知的”職業についている者だったら、当然抱いても不思議ではない願いである。
そのために、
●問題意識(「これはどうなんだろう」「どうしたらうまくできるのか、うまくいくのか」「どちらの立場に立つべきか」「おもしろそうだ。これをモノにしたい」など)をいつももっていること。
問題意識をもちつづけることで、そのうちにいくつかの問題意識は、解決の見通しがたってきたり、解決できたりするようになる。
●人間関係のネットワークをつくる。
自分が中心になってつくってもよいし、他の人が中心となるネットワークに参加してもよい。
1人で1冊の本を書くというのはとても大変だが、集団による共同執筆なら、そんなにたいへんではない。
人間関係のネットワークをつくることで、自分のわからない点はすぐに聞くことができるようになる。資料など送ってもらえる。自分の頭だけでなく、ひとの頭も活用できるのである。
●自分と発想の異なる人間とつきあうこと。
理科教育には、さまざまな潮流がある。どの流れにのるか、それはかなり偶然的なことかもしれない。こうして、理科教育をがんばろうと決意したとき、はじめに出会った流れにのってしまう傾向がある。いったん、……派に属してしまうと、派の人間たちとのつきあいが深まり、派の発想・考え方に染められていく。場合によっては、派の狂信者になり、他派への攻撃性、排他性をもつようになったりする。
それはそれで「それも」人生ではある。しかし、私たちが知的生産者としての立場に立つとすれば、義理人情の世界に身をおきながらも批判精神を忘れてはならない。
それぞれの派には、それぞれによいところがある。一歩はなれて、学問的対象(大げさかな?)として、それらをみる、それらからとり入れられるものをみつけ出すことが大切である。
そのためには、広い範囲の本を読むとともに、自分の派とは発想の異なる人間とつきあうことである。自分の派の人ならすぐわかってくれることでも、違った立場の人にはなかなかわかってもらえない。やはり、わかってもらえないのは、自分の一人よがりの面があってしっかりわかっていないからだ。
自分と発想の異なる人間とつきあうことで、自分のやっていることをいつも見直せるようになりたい。