左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

左巻健男:まちがうことはすばらしい+蒔田晋治:そんな教室作ろうやあ

 29年前(1987年5月初版)の左巻健男『理科おもしろ勉強法』民衆社に書いたもののほんの一部です。
 中学生向けの本なので中学生に語っています。



まちがうことはすばらしい
 本ものの勉強では、“自分で考えること”が大切。授業中、意見をいわせてくれるなら、積極的に発言しよう。
 君たちの頭のなかには、すでに学習したことやさまざまな経験をもとにした考えが入りこんでいる。君たちが理科で勉強する自然科学の基本は、人類の歴史数百万年のうち、つい最近(たとえば100年、200年前とかに)わかってきたことが多い。科学者たちが苦闘して発見してきたことなのだ。だから、君たちがふつうに考えていたら、なかなか理解できないはずなのだ。問題意識がいっぱい出てきて当然なのである。


 それから、まちがって当然なのである。科学者たちだって、法則などを見い出したひとが出るまでは、まちがった考えをあたりまえに主張していたのだ。無数のまちがいの上に、正しいことが確立した。


 授業中に意見をいう機会があったら、まちがいをおそれずに発言しよう。
 ちょっと恥しい気持ちになるかもしれない。
 でもね、人間、まちがいをくり返しながら成長していくもんだ。どうしようもない、致命的なまちがいをしないためには、小さなまちがいをたくさんすることが必要なんだ。
 君のまちがいも、かつてのエライ科学者たちのまちがいと同じことが多い。すばらしいまちがいなんだ。
 

 まちがうのは、一生懸命考えたから。それも自分なりに考えたからだ。いつまでもまちがったままじゃまずいけれど、自分なりに考えて、それでまちがえて自分の頭をきたえていける。


 他の人の意見もよく聞こう。まちがっても笑っちゃいけない。君は、他人の意見からも、ナルホドそうも考えられるなどと、いろいろ学べるのだ。
 考えはいろいろ出せる。それが正しいかどうかは、理科の場合、実験や観察、科学者の研究結果で結着をつける。
 いろいろまちがいながら成長していこう。


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※【付け加え】
 世の中には科学的な感じで飾り立てたおかしい考えもたくさん目にする。
 「科学ではわからないことがある」のに、ある考えをニセ科学などと悪く言うとか「“科学、科学…”という人は頭が固い」と言う人らがいる。たとえば「超能力で、念でスプーン曲げができる」などだ。
 「科学ではわからないことがある」に対して、「科学ではわからないことがあるのはその通りだ。でも、少なくても、スプーン曲げについては科学でわかることだ。科学でわかっていないことも膨大にあるが、わかってきたことも膨大にあり、“岩のように確固たる真実の基盤は増え続けている。小さな真実はそよ風に揺らいだり、新たな真実という嵐の中で壊れたりするかもしれないが、基盤は生き残る。(アン・サイモン)” そういった真実の基盤でスプーンが曲げを考えることができる。


 また、「頭が固い」に対して、次の板倉聖宣氏の言葉を返すだろう。「手品と超能力を区別するのは“実験”。本気で超能力現象だと主張するならその人こそ疑問の余地のない実験をすべき。いいかげんな“ショー”や証言だけで“曲がった、曲がった”と言い、科学的に解明すべきというのは聞くだけで嫌。“もしかするとあるかもしれない”ではなく、“独断的に超能力現象を信じることから出発せよ”という。普通の科学者より独断的で頭が固い」(要約。ものの見方考え方研究会『ものの見方考え方 第2集 手品・トリック・超能力』(季節社))。


 世の中にはとんでもない「妄想」(ありえないことを、みだりに想像すること。みだらな考えにふけること。また、そのような想像。空想。夢想)をもつ人はいくらでもいる。エネルギー保存の法則をふくむ熱力学の法則が確立しているのに永久機関を一生懸命開発しようとする人など。


 他にも常温核融合(室温で、太陽内で起こっているような水素原子の核融合反応が起きるとされる現象)に一生懸命な人らもいる。微生物が生体内で元素転換を起こすと信じている人らもいる。
 そんな強烈な主張をする場合には、誰もが納得する、たくさんの追試にも耐える、もの凄い根拠が必要だ。たとえば常温核融合を起こしたという人らがいたが追試で否定されて今では科学界のスキャンダル(不祥事、醜聞)として有名だ。微生物が生体内で元素転換を起こすとした説もだ。
 カール・セーガンは、著書『コスモス』の中で「途方もない主張には、途方もない証拠が必要である。」と語っている。「途方もない主張」は、ただ主張されるだけだ。「途方もない主張には、途方もない証拠が必要である」のに、「途方もない証拠」が弱いのだ。
 もし、本気で「途方もない」主張をするなら、その人こそ疑問の余地のない実験などの検証をすべきなのだ。───────────────────────────


 次の詩は、「そんな教室作ろうやあ」という蒔田晋治さんの詩である。

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 そんな教室作ろうやあ 蒔田晋治

教室は まちがうところだ
みんな どしどし 手をあげて
まちがった意見を 言おうじゃないか
まちがった答えを 言おうじゃないか

まちがうことを おそれちゃいけない
まちがったものを ワラっちゃいけない
まちがった意見を
まちがった答えを
ああじゃないか
こうじゃないかと
みんなで出しあい 言い合うなかで
ほんとのものを
見つけていくのだ
そうしてみんなで
伸びていくのだ


いつも正しくまちがいのない
答えをしなくちゃならんと思って
そういうとこだと思っているから
まちがうことが こわくてこわくて
手もあげないで 小さくなって
黙りこくって 時間がすぎる


しかたがないから 先生だけが
かってにしゃべって
生徒はうわのそら
それじゃあ ちっとも伸びてはいけない

神様でさえ
まちがう世のなか
まして これから人間になろうと
している僕らが まちがったって
なにがおかしい
あたりまえじやないか
うつむき うつむき
そうっとあげた手
はじめてあげた手
先生が さした
どきりと胸が 大きく鳴って
どきっどきっと 体が燃えて
立ったとたんに 忘れてしまった
なんだかぼそぼそ しゃべったけれども
なにを言ったか ちんぷんかんぷん
私は ことりと
座ってしまった
体が すうっと涼しくなって
ああ言やあよかった
こう言やあよかった
あとでいいこと 浮かんでくるのに


それでいいのだ
いくどもいくども
おんなじことを くりかえすうちに
それから だんだん どきりがやんで
言いたいことが 言えてくるのだ
はじめから うまいこと
言えるはずないんだ
はじめから 答えが
当たるはずないんだ


なんどもなんども
言ってるうちに
まちがううちに
言いたいことの半分くらいは
どうやら こうやら
言えてくるのだ
そして たまには 答えも当たる


まちがいだらけの 僕らの教室
おそれちゃいけない
ワラッちゃいけない
安心して 手をあげろ
安心して まちがえや
まちがったって ワラッたり
ばかにしたり おこったり
そんなものは おりゃあせん
まちがったって 誰かがよ
なおしてくれる 教えてくれる
困ったときには先生が
ない知恵しぼって 教えるで


そんな教室 つくろうやあ
おまえ へんだと 言われたって
あんた ちがうと 言われたって
そう思う だからしょうがない
だれかが かりにも ワラッたら
まちがうことが なぜわるい
まちがってること わかればよ
人が言おうが 言うまいが
おらあ自分で あらためる
わからなけりゃあ そのかわり
誰が言おうと こづこうと
おらあ 根性曲げねえだ


そんな教室 つくろうやあ

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蒔田 晋治(マキタ シンジ) 1925年、静岡県生まれ。静岡第一師範学校卒。小中学校の教師を50年間務める。日本教育版画会、日本作文の会に所属し、実践を続けてきた。編著書に『版画にみる少年期』(新評論社)、『生命を彫った少年』(エミール社)などがある