左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

量で勝負するな(あれもこれも型は駄目)

1 量で勝負するな


 『授業の技術4 1時問を充実させる方法』(明治図書1961年)という古い本を読んだ。その書き出しは、つぎのようだ。
 ”子どもの頭は「白い紙」のようなもので、その上にいろいろなことを書き込んでやる過程が授業である、と考えている教師がいる。・・・このタイプの教師を「あれもこれも型の教師」とよぶことにしよう。量で勝負する教師である。
 白い紙だなんてとんでもない、子どもの頭は写真のフィルムや印画紙のようなものだ。これには前もっていろいろな感光剤が塗られているのであって(感光度の強いものもあれば弱いものもある。白黒もあればカラーもある)、授業はそれに感光させるための露出である、と考える教師がいる。…このタイプの教師を「あれとこれと型の教師」とよぶことにしよう。質で勝負する教師である。
 「あれもこれも型」の教師の授業は平板である。カリキュラムどおりに、週の計画を立てたとするとその計画どおりに、授業を進行させる。子どもの興味関心におかまいなしに一方的に授業をすすめるからそのような強引が可能なのである。この教師の教室には活気がない。子どもたちは苦行のように机についている。教師はますます不安になる。それで、あれもこれも、もっと教えなければと考える。プリントをたくさん用意するのもこの型の教師だ。宿題をたくさん課すのもこの型の教師だ。量で勝負するというわけである。
 ながい間の経験でわたくしはこのタイプの教師をすぐ見ぬくことができる。
 …“良く言えば自分の時問までギセイにする熱心な教師”…すべてを量で代償してしまっているので、授業の悩みを外にあらわすようなことはしない。
 これに反して、平板な授業をさけるためにいつもスランプに陥り、そのスランプを解決するために悩んでいるのが質で勝負する教師である。この型の教師は時問割どおり機械的に授業を進めることができない場合がある。いつも子どもの興味関心を手さぐりし、露出のための「決定的瞬問」をとらえようとしているからである。この教師の教室には活気があふれている。教師は子どもたちの中心にいる。いつも、こんどは、「あれとこれとを育てよう」と考えている。・・・
 質で勝負する教師は自分を大事にする教師である。非本質的な量の仕事に埋没されないで、いつも本質的な教育のありかたに目を向けている。”(小林喜三男)
 ある単元の授業を頑張る、ということが、即、長い時間をかけて(長い時間をかけることが必要な場合もある)、いろんなことを何でも扱うプランをたてて実践するということでは、それは自己満足で終わる可能性が大きい。
 私たちの周囲にも、ばんばんプリントを配って授業をやるのだが、その中味ときたらアレもコレもと欲ばって教えようとしている人が多い。焦点がぼけた授業になってしまっているのだ。アレもコレも教えようではなく、アレとコレだけは教えたいというしぼりきった内容を豊かに肉づけして教えることだ。
私たちは、質で勝負する教師になろう。


2 1年に一単元こそは


 私たちは、はじめからすぐれた授業者になれるわけではない。すぐれた授業者になろうとする意欲と絶えざる修業こそが、そこへ近づく唯一の道である。
理科の授業は奥深い。理科の授業を考えつづけ、やってみては“成功”したり、失敗したりをくり返し、さらに考察を加え改善をはかる。理科の授業のおもしろさを知ってしまうと、なかなかやりがいがあることなのだ。やりがいがあって、日々自分が精神的・知的・技術的に太っていく、わかることも多くなるがわからないことも多くなって、いろいろな問題意識が芽ばえてくる・・・これは、本当の勉強である。私たちが、本当の勉強を体験することによってはじめて子どもたちに「勉強しろ。勉強っておもしろいんだぞ」といえるのである。
 はじめから無理をすることはない。1年に一つでも、頑張ってやる単元があれば、年々「財産」がふえていく。10年目にもなると、あれもやりたい、これもやりたいと思う単元が多くなって、それらを調整するのがつらくなってくる。「いそがばまわれ」である。
 知人・友人、サークル仲間、同僚などに「今年は○○の単元は、頑張ってやってみようと決意しているんだ」と表明しておこう。
 私たちは誰もが弱さをもっている。逃げ道をふさいで、どうしても頑張らざるをえなくしてしまうのだ。研究会やサークルへ実践報告することも考えよう。
最低1年に一単元は教材研究をばっちりやって、教師も子どもも共にやりが いのある理科の授業をつくり出そう。これこそ本当の理科の授業だというも のを目指そう。失敗したってどうってことはない。やり直す機会はあるし、 新しい単元で頑張ればいいんだ。


3 いいものをマネする


 “ひとまねは嫌だ”という人が多い。しかし、もっとほがらかに、いいものはいい、いいものはどんどんヒトマネしようと考えたらどうだろう。マネは恥ではない。マネを恥じて、いいかげんな授業をやっている方が恥なのである。